贖罪としての出征志願
こんばんは。
本日、曹植「雑詩六首」其五の訳注稿を公開しました。
この詩には、呉への征伐に加わりたいという意欲が高い調子で詠じられていますが、
それがどこまで彼の内発的な望みなのかは保留が付くように思います。
というのは、こういう理由からです。
まず、彼の「責躬詩」(『文選』巻20)に次のような辞句が見えています。
常懼顛沛 いつも不安でならないのは、つまづいて倒れ、
抱罪黄壚 罪を抱いたまま、黄泉の国まで行くことになるのかということだ。
願蒙矢石 いっそ戦場で弓矢や石を身に受けて、
建旗東岳 魏の旗を、呉との境界にある山に打ち立てたい。
庶立毫氂 願わくは、ささやかな戦功を立てて、
微功自贖 わずかな力を尽くして働いて、自らの罪を贖いたい。
危躯授命 身の危険をも顧みずに一命を投げ出して、
知足免戻 そうしてこそ罪から逃れることができると悟った。
甘赴江湘 よろこんで長江や湘水の流れる南方に赴き、
奮戈呉越 戈を振るって呉越を平らげたい。
曹植は自らの罪を償うために、呉への出征を申し出ていると読み取れますが、
このことは、その上表文(『文選』同巻所収「上責躬応詔詩表」)に、
本詩は文帝曹丕に対する詫び状として作られた旨を記していることとも符合します。
さて、「責躬詩」等一連の作品は、『三国志』巻19「陳思王植伝」にも引かれており、
その記述から、本作品の成立が黄初四年(223)であったと知られます。
他方、『文選』李善注は、「雑詩六首」のすべてについて、
「別京已後、在鄄城思郷而作(京に別れて已後、鄄城に在りて郷を思ひて作る)」と注し、
つまり、「雑詩六首」を黄初四年の作だと見なしていました(巻29)。
李善は、詩の内容から総合的にこう判断したのか、
それとも、何らかの根拠があってこう注記したのかは不明ですが、
もし、彼のこの注釈が妥当であるならば、
「雑詩六首」其五に詠われた呉への出征に対する意欲は、
「責躬詩」に詠われたそれと重なることになり、
それはつまり、贖罪のための申出であったということになるでしょう。
2020年6月14日