鎮魂歌としての「怨詩行」(5)
ここまでの何回かにわたって、
曹植「七哀詩」をアレンジした楽府詩「怨詩行」は、
曹植に捧げられた鎮魂歌ではないかという推論を示してきました。
そこで、あらためて思い起こされたいのが、この楽府詩が歌われた場所です。
楚調「怨詩行」として、『宋書』楽志三の末尾に収録されたこの楽府詩は、
同文献に記す、荀勗によって選定された宮廷歌曲群「清商三調」に含まれると判断できます。*
また、根拠が今一つ不明確ではありますが、
『楽府詩集』も、その巻41・楚調曲上に収める本作品に「晋楽所奏」と付記しています。
「怨詩行」は、西晋王朝の宮廷音楽として歌われたと見てほぼ間違いありません。
では、なぜ西晋王朝が、魏の曹植の魂を鎮める必要があったのでしょうか。
ひとつには、先にこちらでも述べた理由によるでしょう。
そしてもう一つ、こういうことも考えられるかもしれません。
西晋の武帝司馬炎は、その同母弟司馬攸を遠ざけて憤死に追い込みましたが、
この兄弟の間を割いたのは、他ならぬ荀勗でした。
司馬炎は弟の死を非常に悲しみ、晩年は病気がちで宴楽に耽ったといいます。
(『晋書』巻44・華嶠伝)※
そして、荀勗は朝廷の中枢から外され、鬱屈した日々を過ごしたと記されています。
(同巻39・荀勗伝)
こうした歴史的経緯を踏まえるならば、
もしかしたら荀勗は、自らの所業を悔い、武帝司馬炎をなぐさめるため、
宮廷歌曲のひとつとして、司馬攸を思わせる曹植に鎮魂歌を捧げたのではないか、
曹植に捧げられた鎮魂歌は、同時に司馬攸の魂を鎮めるためのものでもあったのではないか、
このような推論も成り立ち得るのではないかと思います。
それではまた。
2019年9月20日
*近日刊行予定の『狩野直禎先生追悼記念三国志論集』(汲古書院)に寄稿した拙論「晋楽所奏「怨詩行」考―曹植に捧げられた鎮魂歌―」に詳述しています。ここまで述べてきた一連のことも、この拙論で述べました。ご覧いただければ幸いです。
※先に記していた「華廙」は、「華嶠」の誤りでした。ここに訂正します。