阮籍の不服従
こんばんは。
今日も『宋書』楽志所収の楽府詩について。
王朝が主催する公的な宴席で流れる楽曲の歌辞には、
『易』『書経』『詩経』といった儒教の経典に出る語が散りばめられています。
そして、これはこの種の楽府詩に限定されることではありませんが、
対句においては、基本的に同等の古典に由来する語を配置するのが普通であって、
それを踏み外した作品は、自分のような者から見ても、少し下手なように感じられます。
王朝の威信をかけた場で演奏される楽曲の歌辞なのですから、
当然、立派な典故を踏まえた対句が並んでいるはずだと思って読んでいると、
時々、一見そこから外れたように見える辞句に出会うことがあります。
たとえば、昨日と同じ成公綏による「晋四箱歌十六篇」の第六篇に見える次の対句、
德光大 德は光大にして(皇帝の徳は広く輝きわたり)、
道熙隆 道は熙隆す(その治世の道が盛大に興る)。
「德光大」は、『易』坤卦彖伝に見える次の辞句を踏まえています。
坤厚載物 徳合无疆 坤は厚く物を載せ、徳 无疆に合す。
含弘光大 品物咸亨 含弘光大にして、品物 咸(みな)亨(とほ)る。
ところが、対を為す「道熙隆」については、『易』に釣り合う出典が見つかりません。
おかしいなあと思って調べてみたところ、*
『晋書』巻3・武帝紀に記す、
西晋王朝が成立した泰始元年(265)の冬十二月丙寅(17日)、
武帝司馬炎が魏からの受禅を上帝に告げる文章の中に、次のとおりありました。
昔者唐堯、熙隆大道、禅位虞舜。舜又以禅禹、邁徳垂訓、多歴年載。
昔 唐堯は、大道を熙隆し、位を虞舜に禅(ゆず)る。
舜も又以て禹に禅り、徳に邁(つと)めて訓を垂れ、多く年載を歴(へ)たり。
大いなる「道」と「熙隆」とが一緒に用いられているので、
前掲の成公綏の歌辞は、これを念頭に置いた表現であることほぼ確実でしょう。
『易』と、禅譲を上天に報告する文章とを同等に置いている。
その王朝に対する服従のあり様に、そこまでなのかと驚きを禁じ得ません。
これに対置させてみると、阮籍の不服従の重みが想像できるようです。
彼は、いずれ西晋王朝を立てることになる司馬氏の庇護下に生き延びた人物ではありますが、
その不埒とも見える型破りの行動が、どんなに強い思い切りを要するものであったか、
親友とも死別し、独自の道を歩んだ彼の孤独を思います。
2021年4月23日
*台湾の中央研究院による漢籍電子文献で検索しました。自力ではたどり着けなかった文献です。