陳寿祺「三家詩遺説攷自序」
こんにちは。
昨日触れた陳喬樅の父、陳寿祺による「三家詩遺説攷自序」には、
『詩経』解釈の四つの流派、すなわち斉・魯・韓の三家詩及び毛詩について、
その研究史の一端が次のように記述されています。
漢伝詩者四家、魯斉韓、並立学官、元始之世、始置毛詩博士、不久旋廃。
後漢賈逵嘗受詔撰斉魯韓詩与毛氏異同。集攷三家詩、自景伯始。惜其書不伝。
宋王伯厚詩攷、所緝三家遺説、止取文字別異、缺漏甚多。
寿祺案、両漢毛詩未列於学、凡馬班范三史所載、及漢百家著述所引、皆魯斉韓詩。
異者見異、同者見同、緒論所存、悉宜補綴、不宜取此而棄彼也。
今稍増緝以備瀏覧、猶有未能具載者、他日当別成一篇、使学者有所攷焉。
嘉慶二十有四年己卯仲春、福州陳寿祺識於三山之遂初楼。
漢代、『詩経』を伝える者に四家があった。
「魯詩」「斉詩」「韓詩」の三家詩は、並びに学官を立て、
元始(前漢・平帝、1―5)の世になって、始めて「毛詩」博士が置かれたが、
それほど長く続かないうちに、間もなく廃止された。
後漢の賈逵(30―101)は、かつて詔を受けて斉・魯・韓詩と毛詩との異同を著した。*1
三家詩を集めて検討するのは、景伯(賈逵の字)より始まったのである。
ただ惜しいことにその書物は伝わっていない。
宋代の王伯厚(王応麟、1223―1296)による『詩攷』は*2、
収集する三家の遺説が、文字の異同を取り上げるに止まり、欠落や遺漏が非常に多い。
わたくし寿祺が考えるに、
両漢代において、「毛詩」は未だ学問としては認められておらず、
およそ司馬遷『史記』、班固『漢書』、范曄『後漢書』に記されているところ、
及び漢代の諸々の著述に引かれているところは、みな「魯詩」「斉詩」「韓詩」である。
異なるものはその異なるところを示し、同じものはその同じところを示し、
議論のあるところはすべて補い綴り合せるべきであって、
こちらを取り上げてあちらを捨て去るというのはよろしくないのである。
今 少しずつ蒐集を増して、もって皆様のご閲覧に備えたが、
それでもまだ、具体的に詳しく載せることができないものがあるので、
他日、必ずや別に一篇を完成させ、学ぶ者に、これをもとに考究していただきたい。
嘉慶二十四年(1819)仲春、福州の陳寿祺が、三山(福州)の遂初楼に記す。
両漢時代、三家詩が主流であったとは初めて知りました。
陳氏父子による『三家詩遺説攷』には、
様々な書物に引かれた三家詩が幅広く渉猟され、考証が加えられていますが、
そうした調査の裏付けがあってこその、この見解なのでしょう。
そうした趨勢の中で、後漢の鄭玄はなぜ『毛詩』を選んで解釈を付したのか、
経学の素人から見るととても不可思議に感じられます。
この時点では、『毛詩』が唯一、後世に残る『詩経』になろうとは、
誰にも予想されていなかったでしょう。
2021年6月28日
*1 『後漢書』巻36・賈逵伝に「(帝)復令撰斉魯韓詩与毛詩異同」と。
*2 王応麟『詩攷』は、津逮秘書所収テキストが叢書集成初編に収載されている。