陸機「擬明月何皎皎」詩をめぐって
ふと思い立って、概説的な授業の中で、
陸機「擬明月何皎皎」(『文選』巻30)を取り上げることにしました。
『文選』巻29「古詩十九首」其十九「明月何皎皎」に擬した、次のような詩です。
01 安寝北堂上 北の座敷で静かに横になっていると、
02 明月入我牖 明るい月の光が私の部屋の窓に入ってくる。
03 照之有餘暉 月光は窓のあたりをいっぱいに照らしているけれども、
04 攬之不盈手 これをすくい取ろうとすれば掌中からすり抜ける。
05 涼風繞曲房 涼やかな風は、奥まった部屋のあたりを吹きめぐり、
06 寒蝉鳴高柳 秋の蝉は、高く伸びた柳の樹上で鳴いている。
07 踟蹰感節物 立ち止まって季節の風物に感じ入る。
08 我行永已久 私はもうずいぶんと長く郷里を離れている。
09 遊宦会無成 異郷で仕官してもうまくいくことはないかもしれない。
10 離思難常守 離れて暮らす辛さを、いつまでも持ちこたえることはできない。
この詩が基づいた古詩「明月何皎皎」は、次のとおりです。
01 明月何皎皎 明月のなんと皎皎と輝いていることだろう。
02 照我羅床幃 それは私の寝台のとばりを照らし出す。
03 憂愁不能寐 深い愁いに囚われて寝付かれず、
04 攬衣起徘徊 衣を手に取って、起き上がってあちらこちらと歩き回る。
05 客行雖云楽 旅ゆくことは楽しいと言われはするが、
06 不如早旋帰 やっぱり早く家に帰る方がよいに決まっている。
07 出戸独彷徨 戸口を出てひとりでさ迷い歩いてみるけれど、
08 愁思当告誰 この愁いの気持ちを、さていったい誰に告げられよう。
09 引領還入房 首を伸ばして彼方を見やり、また戻ってきては部屋に入ると、
10 涙下沾裳衣 涙が流れてしとどに衣装を濡らすのである。
陸機「擬古詩」については、かつて論じたことがあるのですが、*1
その中でこの詩を中心的に取り上げることはしていません。
そこで、改めてこの作品を読み直してみて、その美しさに打たれました。
そして、これは、陸機が故郷に残してきた妻を思う詩ではないか、と直感しました。
なぜそう感じ取ったのか。
直接的には、第8句の「我行」です。
この詩を詠じている人が、「私の旅」と言っている。
そして、この時代だと、旅に出ているのはほぼ男性と決まっています。
(詩の中の詠じ手と作者とを重ねることについて、今は議論を措いておきます。)
この語句について、岩波文庫『文選 詩篇(六)』(2019年)p.164には、
自分たちを別離させているこの旅。夫の旅を夫婦で共有するものとしていう。
との注記が施されています。
「我」にはたしかにこのような意味があります。
ただ、同じ「我」が第2句にも見えていて、そこでは個としての一人称です。
けれども、一詩の中で、意味を一致させる必要はない、という考えも成り立ちます。
困りました。(直感した、と先ほどは言ったのに。)
前掲の岩波文庫をはじめ、一般に陸機のこの模擬詩は、
女性の視点から詠じられた古詩をそのまま踏襲するものと捉えられているようです。
そのような解釈に沿わせるために、岩波文庫は上記のような注を付けたのかもしれません。
ただ、古詩「明月何皎皎」を男性の視点から詠じたものとする解釈もあります。
それに依るならば、前掲のように注する必要はなくなるのでしょうか。
ひとつ参考になるかと思うのは、
宮体詩ばかりを集めた六朝末の選集『玉台新詠』が、
古詩「明月何皎皎」は採録しているけれども(枚乗「雑詩九首」其九として)、
陸機「擬明月何皎皎」は採録していないということです。
『玉台新詠』の編者である徐陵はおそらく、
古詩「明月何皎皎」を女性の側から詠じられた閨怨詩、
陸機のこの詩を、男性側の立場から詠じたものと捉えたのでしょう。*2
陸機「擬古詩」をめぐって、もう少し行きつ戻りつしてみます。
2024年4月29日
*1 柳川順子『漢代五言詩歌史の研究』(創文社、2013年)pp.445―482。この部分の論考は、拙論「陸機「擬古詩」試論」(『筑紫女学園大学国際文化研究所論叢』第2号、1991年)に大幅な加筆修正を加えたものである。
*2 このことは、前掲の拙著p.136の注(32)、p.481の注(23)に言及している。