駑馬の歩みでも

こんばんは。

『文選』李善注に指摘する文献の原典を当たっていて、
『荀子』修身にいう、次のような言葉に出会いました。

夫驥一日而千里、駑馬十駕則亦及之矣。
 そもそも駿馬は一日に千里を走るが、
 駑馬に十回乗ったならば、これだって駿馬に追いつく。

『文選』巻37所収の曹植「求自試表(自ら試めされんことを求むる表)」、
もうかれこれ二か月もかかって、先週やっと読み終わったと思った李善注でしたが、
ひとつ取りこぼしているものがあって、それがこれでした。

そして、清朝の銭大昕の札記『十駕斎養新録』は、
この『荀子』にいうところに由来する書名なのかと初めて気づきました。
こんな大学者でも、自身の歩みを駑馬のそれのように感じていたのでしょうか。

曹植の「求自試表」は長文で、李善注の量も多く、
少しずつしか進めない、気が遠くなるような読書体験でしたが、
なんだか、先人たちに、それでよいのだ、と言ってもらったような気がしました。

この、前途が遠く先へ先へと伸びていくような感覚には、
思わず脱力することももちろんあるのですが、
それよりも、むしろ不思議な自由さを感じることが多々あります。
自我意識にがんじがらめになったような現代的一般通念からは外れて、
虚心坦懐に古人の言葉に耳を傾けることには、
小さな自己の殻を打ち破っていく爽快感すら覚えます。

2021年2月2日