魏の明帝の太極殿
こんばんは。
曹植「惟漢行」の冒頭に見える「太極定二儀」云々と、
魏の明帝が青龍三年(235)に造営した太極殿(『三国志』明帝紀)との間に、
何らかの関連性がないだろうか、と先に記したことがあります。
その太極殿に言及する、
渡辺信一郎「宮闕と園林―3~6世紀中国における皇帝権力の空間構成―」の中に、*
次のような指摘が見えています。
太極殿を中心とする宮闕制度は、三国魏の明帝によって創建されたものである。
青龍三年に、太極殿、閶闔門、芳林園が整備され、
同五年に、服色や暦が改定され、七廟制が定められ、圜丘が建造されて郊祀が行われた。
これらのことは、曹魏王朝の本格的な成立を意味する。
宮城の整備は、(皇帝自らをも含む)様々な人々を動員して行われた。
宮城の配置は天の星象を写し取ったものである。
天上界と人間界とは密接に関連しあっているとする、
いわゆる天人相関説は戦国期からある、とも本論文中に記されていますが、
では、この考え方を具現化する宮城は、魏明帝以前には造営されなかったのでしょうか。
もしそうであるならば、なぜこの時に至って初めてそれが出現したのでしょうか。
太極という語は、『易』繋辞伝上にいう「是故易有太極、是生両儀」に由来しますが、
それが天上世界と結びついたのはいつ頃、どういう経緯からでしょうか。
『三国志』巻3・明帝期の裴松之注に引く『魏書』に、明帝の甲子詔を引いて、
「夫太極運三辰五星於上、元気転三統五行於下……」とあります。
ここでは既に、太極は天上界で星々の運行を司るものとして捉えられていますが、
こうした発想はどこからやってきたのか。
現在の自分には把握できていないことがあまりにも多く、
太極殿と曹植「惟漢行」とを直に結びつけるような、迂闊なことは言えないと思いました。
2020年9月26日
*『考古学研究』第47巻第2号(通巻186号)、2000年9月)所収。