魏王朝の元旦の宴

昨日言及した曹植「元会」詩の制作年について、以下のことをメモしておきます。

「元会」とは、一年の始まりの日に、君臣が一堂に会して催される王朝主催の宴です。

後漢王朝の最末期、建安二十一年(216)に魏国の王となった曹操は、
都を置いた鄴の文昌殿で、漢儀に則ってこの会を催しました。
(『晋書』巻21・礼志下)

これは、魏の司空となった王朗が、漢の元会の儀について奏上したことによるもので、
『晋書』礼志に記された百華灯の設置も、王朗のこの上奏文の中に見えています。
(『宋書』巻14・礼志一)

では、曹植の「元会」詩は、父曹操の膝下で作られた作品でしょうか。
そうではないだろうと判断されます。
というのは、詩中に「皇家栄貴」と詠じられているから。
後漢王朝がまだ存続している時に、魏に対して「皇家」という語は使えません。

すると、本詩は、黄初元年(220)以降、魏王朝時代の作だということになります。

ところが、魏の制度では、曹植ら諸王は朝見が許されませんでした。
(前掲の『晋書』礼志下)*

そして、明帝の太和六年(232)正月、特別に諸王の朝見が許されたのですが、
彼らはこの時まで、血を分けた一族の催す元会に参列できない状態が続いていたのです。

「元会」詩は、この太和六年正月の会での作と見てほぼ間違いないでしょう。

曹植はその後まもなく、失意の底に沈んで没します。
彼の魂は、その作品が読み継がれるということによって救われたと思いたいです。

それではまた。

2019年8月21日

*このことを指摘しているのが、昨日言及した趙幼文『曹植集校注』です。