魚豢が記した曹植の足跡
こんばんは。
魚豢『魏略』に記された曹植の事績を追ってみたところ、*
次のような記事が確認できました。
a.宴席で、邯鄲淳(荊州から曹操に降った名士)に諸芸を披露し、その才能を絶賛される。(王粲伝注)※
b.曹操が曹植を太子に立てようとしていたところ、丁儀もこれに賛同する。(本伝注)※
c.曹操が漢中を征伐したとき、曹丕は鍾繇の所有する玉玦を求める書簡を曹植に書かせる。(鍾繇伝注)
d.死を目前にした曹操は曹植を後継者にしようとしたと曹彰から告げられ、これを不可とする。(任城王曹彰伝注)※
e.曹操に寵愛された孔桂は、曹操の意を察知して、曹植と親密になり、曹丕を軽んず。(明帝紀注)※
f.後漢王朝が魏に禅譲した際、父曹操の期待を裏切った自身の不甲斐なさに哭す。(蘇則伝注)
g.文帝の黄初四年、自らの罪を謝罪するため、受刑の装束で宮闕に至る。(本伝注)
h.明帝の太和二年、「求自試表」に重ねて自身の思いを表明する。(本伝注)
i.太和二年四月、明帝が崩御して侍臣たちが曹植を擁立したといううわさが立つ。(明帝紀注)
j.明帝の太和五年頃、若者の徴発の免除を訴える。(本伝注)
このうち、※を付した記事の邯鄲淳、丁儀、曹彰、孔桂は、
曹植を持ち上げたことで曹丕の不興を買っています。
曹丕と曹植との確執に、魚豢が目を留めていることは確かだと言えるでしょう。
以上を見る限り、曹植自身の足跡に、曹操の後継者たらんとする意欲を認めることはできません。
そうした動きを作り出しているのは、常に彼の周辺にいる人々です。
もちろん『三国志』裴松之注に引くところが『魏略』のすべてではありませんが、
その記述の大まかな傾向は、ここから十分に推し測れるでしょう。
先日示した魚豢の曹植評は、具体的にどのようなことを指して言っているのか、
なおも未詳と言わざるを得ません。
2020年11月24日
*高秀芳・楊済安編『三国志人名索引』(中華書局、1980年)を手引きとした。