黄初三年の曹植
(一昨日の続きで)
もし『輿地碑記目』に記すところによるならば、
曹植の「鷂雀賦」は、黄初三年(222)に書かれたことになります。
では、この時期の曹植はどのような状況の中にあったのでしょうか。
この間の事情は不分明なところが多いのですが、
曹植自身による「責躬詩」「黄初六年令」を主たる根拠として、
以前、若干の考察を行ったことがあります。*
これらの作品に基づいてこの間の曹植の足跡を詰めていくと、
曹植は黄初元年(220)の末、もしくは二年の初めに、臨淄侯として任地に赴き、
その地で、監国謁者潅均によってその言動の放埓さが摘発されます。
しかし、文帝によって処罰を免れ、安郷侯、次いで鄄城侯に任ぜられました。
これは、黄初二年中のことと見られます。
ところが、鄄城侯であった時に、
東郡太守の王機らに無実の罪をあげられ、都洛陽に出頭するよう命じられました。
しかし、この時も文帝によって赦され、もとの鄄城侯に戻されています。
これは、黄初三年の早い時期だと判断されます。
というのは、同年四月、鄄城の侯から王へ昇格しているからです。
このように見てくると、
「鷂雀賦」がもし本当に黄初三年二月に作られたとするならば、
本作は、曹植が王機らの誣白から逃れられた頃の作だということになります。
ただ、本作品の内容は、曹植の直面した現実と完全に重なるわけではありません。
もっともそれは、文学作品としては至極当然のことです。
ただ、作品は作品、作者の人生はまた別だと言い切れるかどうか。
作品とその背景にある現実とは、無関係ではあり得ないと私は考えます。
けれどもそれは、作品と現実とを一対一で直結させるような方法ではなくて、
もっと別のアプローチによる必要があると思います。
2024年4月2日
*「黄初年間における曹植の動向」(『県立広島大学地域創生学部紀要』第2号、2023年3月)をご参照ください。こちらからダウンロードできます。