黄初初年の曹植

こんばんは。

後漢の献帝からの禅譲を受けて、
曹丕が魏の文帝として即位したのは黄初元年(220)十一月。
それから間もなく、曹植は魏王朝の成立を祝賀する、
「慶文帝受禅表」「魏徳論」「上九尾狐表」といった文章を作っています。

けれども、この直前に当たる同年の秋、
曹植は腹心であった丁儀・丁廙兄弟を、兄の曹丕によって殺されています。
そうした状況下で、自分を絶望に突き落とした人の即位を言祝ぐ、
それはいったいどのような心理によるのでしょうか。

曹植に「龍見賀表」(『曹集詮評』巻7)という文章があって、
皇帝の徳を示す瑞祥として、鳳凰や黄龍が出現したことを慶賀する内容ですが、
この作品の成立年代を、趙幼文は次のように推定しています。*

黄初三年(222)、黄龍が鄴の西の漳水に現れたので、
曹袞はこれを称えて上書した(『三国志(魏志)』巻20・中山恭王袞伝)。
曹植の「龍見賀表」は、これと同時期の作ではないだろうか。

曹袞は、曹植の腹違いの弟で、
非常に堅実な生活態度で学問に励んでいるのを、
文学・防輔の官人たちが王朝に上表して称賛したところ、
このことを厳しく叱責したという、きわめて慎み深い人物です。
それは、権力者に目を付けられることを恐れているからにほかなりません。
こちらを併せてご覧ください。)

そういう人物が、瑞祥の現れたことを王朝に奏上している。
曹植も、これと同じ心理から魏王朝の成立を言祝いだのではないか。
腹心を失ってすぐ、彼らに手を下した者に向けて祝辞を述べたというのは、
決して腹心の死を忘れたわけでも、見境なく権力者にすり寄っていったわけでもなく、
震え慄く恐怖と不安から出た行為ではなかったかと思います。
骨肉の情から、兄を祝賀する気持ちもなかったわけではないでしょうが。

2022年7月19日

*趙幼文『曹植集校注』(人民文学出版社、1984年)p.251を参照。