来し方を悔いる人
曹植(192―232)は、その死後「思」という諡(おくりな)が与えられました。
その意味は、「前の過ちを追悔す」だといいます。
(『資治通鑑』魏紀・明帝太和六年十一月の胡三省注に引く『諡法』による)*
諡ですから、周囲の人々が彼にふさわしい称号として贈ったものです。
景初中(237―239)の詔に、
「陳思王は、その昔過失があったとはいえ、
十分に克己して行いを慎み、先の欠落を補った」と再評価されています。
(『三国志』巻19「陳思王植伝」)
曹植の生涯を見渡せる私たちからすれば、ずいぶん失礼な再評価ですね。
では、曹植自身は、その前半生をどう思っていたのでしょうか。
曹操が亡くなって約1年後、兄曹丕が後漢王朝の禅譲を受けたとき、
後漢の献帝が崩御したと勘違いして哭した蘇則とともに、
曹植は、父の思いを損なった自らの不甲斐なさに激して慟哭したといいます。
それがまた文帝曹丕の不興を買うのですが。
(『三国志』巻16「蘇則伝」裴松之注に引く『魏略』)
その作品から窺える、曹操が存命中の曹植は、
関わりのある文人たちを、友人として手厚く遇する愛情深い人物です。
他方、歴史書に記された事跡(特に若い頃の)を見ると、やはり失態が目に付く。
といって、曹植を責めているのではさらさらありません。
不用意な言葉で人を傷つけたりして、間違いの多い人生を歩んできた自分は、
曹植に対してひそやかな親しみを感じます。
もちろん、一方的な思い込みかもしれません(たぶんそうでしょう)。
でも、この人のことをきちんと伝えていきたいというモチベーションにはなります。
それではまた。
2019年7月15日
*伊藤正文『曹植(中国詩人選集3)』(岩波書店、1958年)の「解説」に導かれて知り得たものです。