宝刀を授けられた王族

一昨日からの続きです。
曹植「宝刀賦」の序文に、饒陽侯(曹林、又の名は豹)が言及されていました。
彼はどのような人物だったのでしょうか。

過日も触れた曹操「百辟刀令」に述べられていたとおり、
この宝刀は、曹操が学問を好む我が子に贈ろうと作らせたものでした。

他にこの宝刀を手にしたのは、曹丕、曹植、そして曹操自らが2枚を保持していました。
すると、曹林(豹)もまた、学問文芸を善くする人物だったと推測されます。

『三国志人名索引』*によって調べてみると、
曹林(巻20に本伝あり)に関する次のような記事にたどり着くことができました。

まず、彼は建安16年(211)、饒陽侯に封ぜられています。
これは、曹丕が五官中郎将、曹植が平原侯、曹拠が范陽侯となったのと同じ時です。
(巻1「武帝紀」裴松之注に引く『魏書』)

第二に、魏の黄初中(220―226)、儒者隗禧を郎中として召し抱えた譙王として、

王宿聞其儒者、常虚心従学。禧亦敬恭以授王。
 譙王(曹林)はつとに彼が儒者だと聞いていたので、常に虚心に彼に従って学んだ。
 隗禧もまた敬意をもって恭しく王に学問を教授した。

と見えています。(巻13「王朗伝附王粛伝」裴注引『魏略』)

『魏略』は、先にも述べたとおり、独自の思想を持つ、史料的価値の高い文献で、
ここも、編者魚豢の眼鏡に叶う儒者たちが「儒宗」として列伝に仕立てられている部分です。
隗禧を含む彼ら数名は、学問が荒廃した時代にあってなお気を吐いた人々ですが、
(とはいえ、王粛などに比べるとほとんど無名に近い人々です。)

そうした儒者を大切にした人物として、譙王曹林の名が記されているのです。
魚豢は、そうした人々の生きた証を丁寧に拾い上げています。

それではまた。

2019年10月23日

*高秀芳・楊済安編『三国志人名索引』(中華書局、1980年)。称号や名が様々に変わっても、ある人物を追いかけることができる、すごい研究成果です。