魏王朝の宮廷歌曲と民間の歌謡
魏王朝で演奏された宮廷音楽に、
「相和」十七曲(後に十三曲に編成)があります。
また、魏の人々は、後に「清商三調」と呼ばれる歌辞も多作しました。
(両者の違いについては、こちらの№17・19をご覧いただければ幸いです。)
これらの歌曲が、続く西晋時代にどのような位置を占めるようになるのか、
そのことを考察するため、先年、漢魏晋楽府詩一覧を作成しました。
(この作業から得たことは、こちらの№17の成果の一部となっています。)
この一覧は、修訂して公開する予定です。
ところが、すぐに終わるかと思われたこの修訂作業、
ここへきて、その見通しが甘かったことを痛感させられています。
というのは、魏の文人たちが手がけたのは、
「相和」はもとより、「清商三調」のみに限らないことに思い至ったからです。
そうすると、先行する漢代の歌謡を広く見渡す必要が出てきます。
そのようなわけで、今、
逯欽立『先秦漢魏晋南北朝詩』(中華書局、1983年)に導かれながら、
断片をも含めて一覧に記入する作業を行っています。
この作業では、逐一典拠に当たっての確認はしていません。
もっぱら逯欽立の仕事に依拠して記すのみです。
だからとても楽なのです。
翻って、逯欽立の仕事ぶりのすごさに打ちのめされます。
たいへんな量の断片を拾い上げ、それを出典とともに記していった先人の仕事。
頭を垂れて、感謝するばかりです。
……そうしてまた愕然とするのが、
ここに収載された歌辞が、当時歌われていたものの一部に過ぎないという事実です。
このことを念頭におき、
逯欽立の記す歌辞を縦覧する限り、
それは魏王朝で演奏された「相和」「清商三調」には似ていません。
魏の建安文壇に盛行した五言詩が民間から遊離したものであることは、
すでに先人が指摘しているとおりですが、*
楽府詩もまた同様であったということがよくわかります。
それではまた。
2019年7月3日
*岡村繁「五言詩の文学的定着の過程」(『九州中国学会報』17,1971年)を参照。