否定の言葉を使うとき
このところ、世間を敵に回すような言葉ばかりを使っています。
「数値化せよ、エビデンスを示されよ」、
「文献研究はもう古い、これからはフィールドワークだ」云々と、
そのようなことをもう何年言われ続けてきたことか、
それらに対する反発心が、このところの荒れたものの言い方のおおもとにあります。
すべてに超越していれば、こんな言い方はしなくてもいいはず。
何かを強く否定するのは、日々そうした現実にさらされ続けているから、
そして、そこから逃れられないからです。
阮籍の「詠懐詩」には、そうした強い否定の言葉、
まとわりつくものを振り払うような、反語表現が多用されています。
そして、彼が疑問をぶつけ、異議申し立てをする対象はある傾向を示していて、
それはおよそ世俗的価値観とでもいうべきものです。
(寵禄、時路、栄名、寵耀、富貴、百世名など)
けれど、彼は世俗から脱出していった先(たとえば神仙世界)で、
そこにも絶望して、再び現実世界に戻ってきます。
だから、阮籍は世俗を見下す超越者なのだ、とは言えない。
むしろ、強く否定しないではいられないほど、
彼の周りには世俗がまとわりついていたということであって、
彼の「詠懐詩」のほぼ全篇に反語表現が現れるのは、
彼と世俗との近さを物語っている。
と、これは若い頃の考察です。(こちらの学術論文№1の一部)
こんなふうに手探りで「詠懐詩」を読んでいたときに出会ったのが、
大上正美「阮籍詠懐詩試論―表現構造にみる詩人の敗北性について―」*です。
表現の仕方は異なるけれど、同じところに目を注いでいる人がいる、
この出会いは、文学研究という世界の中でこそのものでした。
それではまた。
2019年10月2日
*大上正美『阮籍・嵆康の文学』(創文社、2000年)所収。初出は『漢文学会会報(東京教育大学漢文学会)』第36号、1977年。