曹操の息子たち

先に、曹操が宝刀5枚を作り、文治を託せる子に与えようとしたけれど、
そのうちの2枚は曹操の手元に残ったことを述べました。

なぜそのようなことになったのでしょうか。

宝刀ができたのは、建安16年(211)から22年(217)までの間、
(もう少し絞り込めると思いますが、今は措いておきます。)
これより以降、曹操は呉の孫権、漢中の張魯、劉備を征伐しに出掛ける一方、
漢王朝の遺臣である金禕や吉本、また西曹掾の魏諷らが起こした反乱に苦慮しています。
相次ぐ内憂外患に、文治どころではなくなったのかもしれません。

とはいえ、曹操の期待に応え得る息子が、
曹丕、曹植、曹林のほかにいなかったのでしょうか。

曹操には二十五人もの息子がいたのですから、
あと二人くらいは、宝刀の下賜に値する人物がいてもよさそうなものです。

そこで、『三国志』の彼らの伝記(巻19、20)を概観してみたところ、
殺伐とした風景が眼前に広がるのを禁じえませんでした。

曹操の息子たち25人のうち、
建安16年(211)当時、生存していたものは15人、
太子が曹丕に決まった同22年(217)には14人、

曹丕が文帝として即位した220年以降の生存者は12人、
更に明帝期になると10人。

(こちらにまとめてみました。)

曹丕が太子に立てられたとき、
その母である卞皇后は、女官長に祝福されても節度を守った、
と、同巻5「后妃伝(卞皇后)」に記されていますが、
卞皇后の態度の背景には、こうした状況もあったのかもしれません。
(それとも、この時代の子供の生存率はこれくらいが普通だったのでしょうか。)

多くの公子が早逝する中で、生きている者の中には、
たとえば曹袞のように非常に聡明な人物もいたのでしょうが、
そうした人々は、曹丕と曹植との後継者問題が緊張の度を増す中で、
それに巻き込まれることを恐れ、敢えて自身の文才を隠した可能性もあります。

それではまた。

2019年10月26日