同じく文治を説いた人
先に、曹操に文治を説いた、袁渙という知識人がいたことを述べました。
時に曹操は魏公となったばかりとあるので、それは建安18年(213)頃のことでしょう。
ところが、ほぼ同じ頃、同じく曹操に文治を説いて黙殺された人物がいます。
参軍の傅幹です。
『三国志』巻1「武帝紀」裴松之注に引く『九州春秋』に、
建安19年(214)、秋七月、孫権を討伐しようとした曹操に対して、
これを諫めた彼の言葉が記されています。
『隋書』巻33・経籍志二によると、
『九州春秋』十巻(雑史)の著者は司馬彪。
彼はまた、正史『続漢書』八十三巻をも著した歴史家です。
(現行の『後漢書』巻末の「志」は、後人が『続漢書』から採ったものですね。)
してみると、傅幹に関する記録は信頼できると見てよいでしょう。
その『九州春秋』は、
傅幹の諫言を引いた後に「公は従わず、軍は遂に功無し」と記していますが、
曹操に関する記録にはよくある、自分の間違いを認めて謝罪したとの記述は見えません。
(曹操が実際に何も言わなかったのか、記録に残らなかっただけなのかは不明ですが。)
また、続けて「(傅幹は)北地の人にして、丞相倉曹属に終わる」とあります。
全国の知識人ネットワークに名を馳せる人物(袁渙など)の言うことは「善し」とするが、
(ただ「善し」としただけなのかもしれませんが。)
無名に近い部下の言葉には耳を貸さなかったということでしょうか。
若い頃の曹操には、あまり認められない姿勢であるような印象を持ちました。
ところで、『九州春秋』の本条によると、
これまでにも何度か言及したことがある傅玄は、傅幹の息子だとのこと。
傅玄の著書や作品は、その父と曹魏政権との関係を視野に入れると理解できることがありそうです。
それではまた。
2019年10月28日