時代の変わり目を生きた人

魏王朝(厳密にいえば文帝曹丕*1)の諸王に対する冷酷な処遇を批判した袁準、
彼はその「自序」の中で、自らの立ち位置を次のように述べています。

以世事多険、故常恬退而不敢求進。
世の出来事に険阻なことが多かったため、常に栄利とは距離を置き、敢えて出世を求めなかった。
(『三国志』巻11「袁渙伝」裴松之注に引く『袁氏世紀』)

袁準が阮籍や嵆康と付き合いがあった、もしくは関わりを持とうとしたのは、
彼のこのような現実認識と、その中で自らの生き方を模索したことに由来するのでしょう。

彼は、嵆康に対しては、琴曲「広陵散」を学びたいと願い出て拒絶されました。
(『世説新語』雅量篇、『晋書』巻49「嵆康伝」)

また、阮籍との間には、次のようなエピソードが残っています。
司空の鄭沖が、司馬昭に晋公受諾を勧める文章*2を阮籍に求めに行ったとき、
阮籍は袁準の家にいて、二日酔いの状態であった、と。
(『世説新語』文学篇)

嵆康は、魏の元帝の景元四年(263)*3、呂安事件に連座して司馬昭に殺されました。
鄭沖に上記の文章を書かされた阮籍も、嵆康と同じ年に没しています。

他方、袁準は、西晋王朝の初代皇帝である武帝司馬炎の泰始年間(265―274)、
その俊才が買われて給事中(皇帝の顧問)となりました。
(前掲『世説新語』文学篇の劉孝標注に引く荀綽『兗准州記』)
この閲歴は、前掲の「自序」にいうところとは少し食い違っていますね。

魏王朝から西晋王朝に移行していく時期、
人はそれぞれに思うところあって生きる道を選択していったのでしょう。
以前にも触れた、荀彧や荀攸を輩出した荀氏一族も同じです。
阮籍を読んでいた学生時代、曹魏が司馬晋に簒奪されるという側面ばかりを見ていましたが、
現実はもっと複雑だったのだろうと今は考えています。

それではまた。

2020年1月6日

*1 先にも取り上げた、魏の明帝の太和五年(231)八月の詔(『三国志』巻3「明帝紀」)から明らかである。
*2 阮籍「為鄭沖勧晋王牋(鄭沖の為に晋王に勧むるの牋)」は『文選』巻40所収。
*3 嵆康の没年については、景元三年(262)とする説もある。今、曹道衡・沈玉成編『中国文学家大辞典・先秦漢魏晋南北朝巻』(中華書局、1996年)、興膳宏編『六朝詩人伝』(大修館書店、2000年)に従っておく。

「阮籍関係年表」を一部訂正しました。間違いをご指摘くださった方、ありがとうございます。訂正がこんなに遅れてしまって恥ずかしい限りです。