曹植とその異母弟
昨日、魏の文帝治世下における曹植の境遇について述べました。
曹植が、実の兄である文帝曹丕からどれほど酷い仕打ちを受けたかということは、
曹植に次ぐ文学的才能に恵まれた彼の異母弟、曹袞の言動からも推し測ることができます。
(以下、『三国志』巻20「武文世王公伝(中山恭王袞)」による。)
曹植が、監国謁者の灌均にその過失をあげつらわれ、朝廷から処分を受けた黄初二年(221)、
爵位を進められて公となった曹袞は、慶賀する臣下たちにこう言います。
夫生深宮之中、不知稼穡之艱難、多驕逸之失。諸賢既慶其休、宜輔其闕。
自分はそもそも宮中の奥で生まれて、農作業の苦労も知らず、驕慢の過失も多い。
諸賢におかれては、我が幸いを慶賀された上は、どうか我が欠点を補佐していただきたい。
また、同じ頃、属官の文学と防輔が彼の美点を称揚したところ、
曹袞は恐れおののき、朝廷にそのような奏上をした彼らを譴責しました。
彼はなぜそこまで自身の輝きをひた隠しにしようとしたのか。
それは、文帝曹丕にあらぬ嫌疑をかけられたくなかったからでしょう。
曹袞は、明帝の青龍三年(235)、曹植が没して三年後に亡くなりますが、
その死を前に、跡継ぎの息子に次のような戒めを残しました。
少し長いのですが、全文を引きます。
汝幼少、未聞義方、早為人君、但知楽、不知苦。不知苦、必将以驕奢為失也。接大臣、務以礼。雖非大臣、老者猶宜答拝。事兄以敬、恤弟以慈。兄弟有不良之行、当造膝諫之。諫之不従、流涕喩之、喩之不改、乃白其母。若猶不改、当以奏聞、并辞国土。与其守寵罹禍、不若貧賤全身也。此亦謂大罪悪耳、其微過細故、当掩覆之。嗟爾小子、慎修乃身、奉聖朝以忠貞、事太妃以孝敬。閨闈之内、奉令於太妃、閫閾之外、受教於沛王。無怠乃心、以慰予霊。
お前は幼くて、まだ正しき道を聞いていないうちに、早くも人君となったので、ただ楽しみを知っているだけで、苦労を知らない。苦労を知らないと、必ずや自分勝手なふるまいによって失敗することになるのだ。大臣に接する際は、礼儀作法に努めよ。大臣でなくとも、年季の入った年長者には答礼をするがよい。兄に仕えるには敬意をもって、弟をいつくしむには慈愛の心をもってせよ。兄弟に良からぬ振る舞いがあったら、膝を突き合わせてこれを諫めるべきだ。諫めても相手が従わないなら、涙を流して諭せ。諭しても改まらないなら、そのときはその母親に申せ。もしそれでも改まらないならば、朝廷に奏聞すべきで、あわせて国土に別れを告げよ。寵愛にしがみついて禍に罹るくらいなら、貧賤の境遇で身を全うした方がよいのだ。これはまあ大罪悪の場合を言ったまでで、その微細な過失は、もちろんこれを庇ってやらねばならぬ。ああ、なんじ小子よ、慎んでその身を修めて、聖なる朝廷には忠誠心をもってお仕えし、母上には孝敬の気持ちをもって仕えよ。奥御殿の中では母上の命に従い、門の外では、沛王(曹袞の兄、曹林)に教えを受けよ。怠け心を起こすことなく励み、それによってわたしの霊魂を慰めてくれ。
彼の境遇を知る我々には、もはやこれを通り一遍の訓戒と見ることはできません。
それは、彼の実人生から導き出された、千金の重みを持った処世の知恵なのだと思います。
ところで、これにやや遅れて、阮籍や嵆康ら竹林の七賢が現れました。
そして、その後まもなく魏王朝は西晋王朝に取って代わられ、
当時を生きる知識人の多くが、司馬晋という新興勢力の傘下に入っていきます。
この大多数の人々の動向と竹林七賢の登場とは、一見相容れない事象のようにも思えます。
ですが、上述のごとき魏王朝草創期の状況を踏まえると、
この二つの潮流は、実は同じ根から生じたものではないかと思えてきます。
先に取り上げた袁準や傅玄も、同じ時代を生きた人々でした。
それではまた。
2020年1月8日