文学を好む兄弟

曹植の文才に肩を並べようとした皇族に、中山恭王曹袞(?―235)がいます。
『三国志』巻20の本伝には、
「凡所著文章二万余言、才不及陳思王而好与之侔」と記されています。
才能は異母兄の曹植には及ばなかったけれど、好んで兄と肩を並べたがった、と。
近しい年長者に強くあこがれ、少年らしい勝気さで兄と張り合う様子が目に浮かぶようです。
なお、これは曹丕が曹操の後を継いだ220年以降のことではないでしょう。
曹丕の時代となってからは、兄弟間の交流が禁止されましたから。

さて、実は、宝刀を与えられた曹操の子と聞いて、
曹丕・曹植以外では真っ先にこの曹袞のことを想起したのですが、その推測は外れました。
建安21年(216)に平郷侯に封ぜられていることから考えると、
曹操が宝刀を作った頃はまだ、十代前半くらいの少年だったと推測され、
そのために、宝刀を下賜されて文治を託されるということがなかったのかもしれません。

そして、昨日言及した「饒陽侯」曹林は、彼の同母兄でした。

前掲『三国志』本伝の記述によると、
曹袞は慎み深い態度を貫き、逐一その言動が朝廷に報告される等の仕打ちによく堪え、

明帝の時代、病気で亡くなりましたが、曹林は彼にその死後を託されています。

なお、曹林の孫娘は、嵆康の妻です。(『三国志』巻20「沛穆王林伝」裴松之注に引く『嵆氏譜』)
彼女が婚家に持ち来った家風というものがあるとするならば、
それはきっと、文学や学問を好む、物静かな気風なのだろうと想像しました。

それではまた。

2019年10月24日