門を出てから(補記)
こんばんは。
車を駆って上東門を飛び出し、
城北に横たわる陵墓群を眺めやると詠ずる古詩「駆車上東門」、
これを明らかに踏まえると見られる阮籍の「詠懐詩」其九・其六十四について、
昨日、そこに詠われた「首陽」は、魏の文帝が眠る首陽陵を想起させる、と述べました。
ですが、これはちょっと言いすぎました。
といのは、少なくとも其九は、首陽山が喚起するもう一つの強いイメージ、
周の武王に抵抗してこの山に隠棲し、餓死した伯夷叔斉の姿を情景の一部に描きこんでいるからです。
周の武王が魏の文帝に重なるとはいえ、直接的に首陽陵を詠じているわけではありません。
他方、其六十四の「詠懐詩」は、
「首陽の基」を「松柏は鬱として森沈たり」と描写し、
松柏といえば陵墓に植える常緑樹なので、これは明らかに首陽陵を指すでしょう。
魏の文帝曹丕が崩御したのは、阮籍が17歳の時、
後漢王朝の禅譲を受けて、曹丕が魏の文帝として即位したのは、阮籍が11歳の時、
そして、曹植が亡くなったときは23歳、明帝曹叡が亡くなったときは30歳。
(こちらの「阮籍関係年表」をご参照ください。)
つまり阮籍はその青少年期、魏王朝が内部から崩壊していく様を目の当たりにしていたわけです。
阮籍と同世代で、交友関係もあったらしい袁準は、
その著書『袁子』の中で、曹丕の弟たちに対する仕打ちを批判していますが、
王朝衰退の原因をこうした視覚から鋭く切り込む見方は、
あるいは阮籍も共通して持っていたものであるかもしれません。
2020年5月20日