曹植「娯賓賦」札記

こんばんは。

先週7月27日、28日に言及した曹植「娯賓賦」について、
その後、ひととおりの通釈を試みました。(訳注稿は未完成です。)
通釈しようとすれば、それまで読めていなかった部分に踏み込まざるを得ません。
そうして新たに浮上してきた幾つかの気づきを記します。

本作品の5句目「辦中廚之豊膳兮(中廚の豊膳を辦(ととの)へ)」は、
曹植の他の作品に、次のような類似句が見えています。
まず、[04-14 贈丁廙]に「豊膳出中厨(豊膳 中厨より出づ)」、
また、[05-01 箜篌引]にも「中厨辦豊膳(中厨 豊膳を辦へ)」とあります。

第11句「欣公子之高義兮(公子の高義を欣ぶ)」の「公子」とは、
趙幼文『曹植集校注』(人民文学出版社、1984年)が指摘するとおり、曹丕を指すでしょう。
それは、曹植の別の作品に見える「公子」、すなわち、
04-01 公宴]に「公子敬愛客、終宴不知疲(公子 客を敬愛し、宴を終ふるまで疲れを知らず)」、
また、[04-02 侍太子坐]に「翩翩我公子、機巧忽若神(翩翩たる我が公子、機巧 忽として神の若し)」、
これらにいう「公子」が、いずれも曹丕を指すことと照らし合わせてみれば明らかです。

すると、「公子の高義を欣ぶ」の主語は、曹操だと見るのが自然でしょう。

そして、この文脈をたどっていけば、
「揚仁恩於白屋兮、踰周公之棄餐(仁恩を白屋に揚ぐること、周公の餐を棄つるを踰ゆ)」もまた、
曹操のことを指して言っているのだということになります。

曹操「短歌行・対酒」に、この周公旦の逸話が用いられていることは、先にも示しました。
曹植は、宴席における我が父曹操の様子を、同じ故事を用いて描写している、
そのことから、曹植の曹操に対する尊崇ぶりがうかがえます。

また、本作品の描写のリアルさから見て、
この作品の成立年代は、おそらく曹操が存命中の建安年間でしょう。
そのことは、本作品が、建安年間の作であることが明らかな「贈丁廙」詩と、
前述のとおり「豊膳出中厨」という詩句を共有していることからも跡付けられます。

2020年8月3日