曹植の「惟漢行」と「怨歌行」
こんばんは。
先日来、試行錯誤しつつ検討してきた、
曹植の「惟漢行」(たとえばこちら)と「怨歌行」(直近はこちら)は、
ともに明帝期に入ってからの作だと推定されます。
そして、両作品とも周公旦の故事に触れているという共通項を持っています。
では、この二首の楽府詩はどのような関係にあるのでしょうか。
「惟漢行」の「日昃不敢寧」という句は、
周公旦が成王に文王の事蹟を説いて聞かせる『書経』無逸篇を踏まえています。
そのことから、この楽府詩は、作者である曹植が自身を周公旦に重ね、
曹操の逸話をも示しつつ、若き明帝を戒める趣旨で作ったものだと推定されたのでした。
一方の「怨歌行」は、ほぼ全篇、周公旦の逸話を述べるものです。
周王室を補佐しながら、身内の管叔鮮と蔡叔度から讒言されて東国へ流され、
のちに天威によってその赤心が明らかにされ、成王の信頼を回復するという一連の故事が、
もっぱら『書経』金縢篇の記述に基づいて詠じられています。
この両作品は、いずれが先に作られたのでしょうか。
このことについて、次のように見るのが最も妥当ではないかと考えます。
まず、明帝が即位して間もない頃、曹植は上記の意図から「惟漢行」を作ったと思われます。
それは、王朝運営への参画の抱負を詠じた「薤露行」の続編としてであったでしょう。
この楽府詩には、不思議なほどまっすぐにその志が映じられています。
ところが、「惟漢行」に表明された志は、魏王朝には認められなかったようです。
それは、骨肉には王朝運営に関わらせないという、魏王朝草創期からの方針によるものか、
あるいは、曹操「薤露」に基づくということが、王朝の滅亡を連想させたためか、
はたまた、宮廷歌曲「相和」の歌辞を作ったことが不遜と捉えられたか、
その理由は状況から推測するほかないのですが、ともかく、
これは曹植にとって、大きな挫折であったことは間違いありません。
そこで、この「惟漢行」に起因する不遇を打破しようとして、
周公旦の不遇と名誉回復とを詠ずる「怨歌行」を作り、その赤心を示そうとしたのではないか、
つまり、「惟漢行」の後を受けて「怨歌行」が作られたのだと私は推測します。
なお、曹植における「怨歌行」制作の意図は、
明帝期、曹植が盛んに王朝に対して上奏をしていることと機軸を一にするでしょう。
たとえば、「求自試表」「求通親親表」「陳審挙表」は、「怨歌行」の詠ずるテーマに通じます。
(三篇とも『三国志』巻19「陳思王植伝」に引く。前二者は『文選』巻37にも収載。)
その他、「輔臣論」「諫取諸国士息表」「諫伐遼東表」といった作品も同種と見なせるでしょう。
こうした作品は、前の文帝期には認められないものです。
2020年8月7日