曹魏明帝に関する先行研究(2)

こんばんは。

今日は、福原啓郎「三国魏の明帝―奢靡な皇帝の実像」*を読みました。

祖父の曹操にその将来を嘱望された明帝曹叡は、
魏王朝の威信と制度的基盤を作り上げることに尽力した剛毅な皇帝であり、
奢侈な宮殿造営や、自らの廟号を生前に烈祖と定めたこと等はその意思の現われであった、
という論述内容からは、多くの驚きと啓発を受けました。

明帝にはなんとなく影が薄いイメージを持っていたのですが、
歴史家である福原氏の描き出す明帝像は、それとはまるで違っていました。
また、同じ時代に曹植が生きていたということを、ほとんど忘れそうになりました。
(気後れして、中学校の生徒会で先輩の話がまるで分らなかったことを思い出したことです。)

明帝の宗室尊重と、それに対する名族の巻き返しは、福原論文の中でも論及されています。
それで思ったのですが、曹植のような人物が王朝の中枢に加わるということは、
明帝の周辺にいた名族たちが嫌がったのかもしれないと想像しました。
人望もあり、才能にも恵まれた皇族は、勢力伸張を狙う名族たちにとっては邪魔者でしょう。
もちろん文帝の遺命があったにしても、それとは別の立場からの思惑として。

もうひとつ、明帝が造営した太極殿という宮殿名は、
「太極定二儀」という句から歌い起こし、
天人相関説を踏まえつつ、皇帝たる者のあるべき道を示す、
曹植「惟漢行」を意識している可能性がないだろうか、と妄想しました。
太極殿などが造営されたのは青龍三年(235)で(『三国志』明帝紀)、
曹植の没したのはその三年前の太和六年ですから、記憶はまだ薄れてはいないでしょう。
もっとも、太極という語はそれほど特殊な語句ではありませんが。

2020年8月20日

*初出は『古代文化』第52巻第8号、2000年。『魏晋政治社会史研究』(京都大学学術出版会、東洋史研究叢刊之七十七、2012年)に追補版が収載されている。