唐代における枚皋のイメージ

こんばんは。

以前、言及したことのある、
元稹がその詩中で白居易を喩えた前漢の文人、枚皋について。

先には、枚皋の作風が軽佻浮薄であることに着目し、
そうした文人を白居易に喩えているところに、元稹の不興を読み取りました。
これに対して、ある研究生から次のような内容の指摘を受けました。

たしかに漢代の文献に現れる枚皋は軽薄な文人であるが、
唐代における彼のイメージは、必ずしもそのように否定的なものではない。
たとえば、元稹より少し前の大暦年間の詩人、銭起(?―782)の詩
「和李員外扈駕幸温泉宮(李員外が温泉宮に駕幸するに扈ふに和す)」に、

遥羨枚皋扈仙蹕  遥かに羨む 枚皋が仙蹕[行幸]に扈(したが)ひ
偏承霄漢渥恩濃  偏(ひと)へに霄漢を承(う)けて渥恩の濃きを
(『全唐詩』巻239)

とあるように、華やかな宮廷文人というイメージの方が強い。

言われてみればたしかに銭起の詩はそのとおりです。
では、なぜ唐代、枚皋はそのような人物と捉えられるようになったのでしょうか。

それは、もしかしたら幼学書『蒙求』の影響によるものかもしれない、と思いました。

『蒙求』には、「枚皋詣闕」という句が見えています。*
自ら枚乗の子と名乗り、宮闕に赴いた枚皋の逸話を四字句にまとめたもので、
ここには、彼の軽佻浮薄な文芸活動よりも、宮廷という場の輝きの方が強く感じられます。
前漢王朝と唐王朝とは、都が同じ長安ですから、その輝度は益々増したでしょう。

なお、『蒙求』の現行の注には、末尾の方に、その軽薄な作風への言及が見えますが、
もしかしたら、旧注(佚)ではそれが無かった可能性もあるかもしれません。
標題が、前掲のとおり、宮闕に詣でた枚皋を前面に出していますから。

(なお、以上はあくまでも仮説であって、たしかな根拠は現存しません。)

2020年10月9日

*これと対を為しているのは「充国自賛」です。前漢の将軍、趙充国には、枚皋の軽佻浮薄に匹敵するようなマイナス要素はなさそうですから、いよいよ『蒙求』に引く枚皋の逸話は否定的なイメージをそれほど帯びてはいないのではないかと思われるのです。