平安朝の詠史詩
こんばんは。
詠史詩は、漢代の宴席芸能に出自を持つものであると論じたことがあります。
建安文人たちの詠史詩も、この漢代宴席芸能としての詠史詩の流れを汲むものです。
(こちらの学術論文№42「五言詠史詩の生成経緯」をご覧いただければ幸いです。)
このことは、下って六朝期末の「賦得」の詩(宴席における競作詩)にも認められるところで、
たとえば、陳朝の人々には次のような作品が残っています(『藝文類聚』巻55)。
張正見の「賦得韓信詩」
周弘直と楊縉の「賦得荊軻詩」
阮卓の「賦詠得魯連詩」
劉刪の「賦得蘇武詩」
祖孫登の「賦得司馬相如詩」
いずれも、『史記』等の歴史書で、どこか通俗的な記述を内包する逸話の持ち主たちです。
「賦得」とは、「集会の席」で「数人が共通の大題の下に、それぞれ小題を分得して作」るもので、*
さまざまな事物が題目に取り上げられて競作されました。
歴史故事という題材は、その中のひとつです。
さて、日本の平安朝初期の勅撰漢詩集『文華秀麗集』巻中に、
次のような詠史詩が収載されています。
(嵯峨天皇)御製の「史記講竟、賦得張子房」
良岑安世の「賦得季札」
仲雄王の「賦得漢高祖」
菅原清公の「賦得司馬遷」
「賦得」とあることからも、これらが集会の席で作られた作品であることは確かですが、
ただ、中国の詠史詩とは若干異なるニュアンスが感じられます。
それはおそらく、御製の詩題にいう「史記講竟」がかもし出しているのでしょう。
『史記』の講義が終わったところで、
それに基づいて詩の競作が為されたようですが、
外国文学に対する勤勉な学習の成果とも言えるような雰囲気です。
この点、中国の詠史詩は元来もっと娯楽色が強いものです。
文化的発祥の地である中国と、それを受けて摂取する側に立つ日本と、
同じ詠史詩ではあっても、それが位置する文化的座標には歴然とした違いがある、
このことを認めないわけにはいきません。
2020年10月18日
*斯波六郎「「賦得」の意味について」(『六朝文学への思索』創文社、2004年。初出は『中国文学報』第3冊、1955年)を参照。