曹植と魚豢

こんばんは。

『魏略』の撰者魚豢に、今日、思いがけないところで再会しました。
(かつてこちらの学術論文№41で論じたことがある人です。)

読んでいたのは、曹植「求自試表」(『文選』巻37、『魏志』巻19・陳思王植伝)、
その中に、次のようなフレーズがあります。

君無虚授  君主は根拠もないのにむなしく官職を授けることがなく、
臣無虚受  臣下は根拠もないのにむなしくそれを受け取ることがない。
虚授謂之謬挙  根拠もないのにむなしく授ける、これを誤った人材登用といい、
虚受謂之尸禄  根拠もないのにむなしく受ける、これを給料泥棒という。
詩之素餐所由作也  『詩経』の「素餐」の詩(魏風「伐檀」)が作られたわけである。

この表現は、『文選』李善注の指摘によれば、
『詩経』解釈の一派「韓詩章句」にいう次の記述を踏まえたものです。

何謂素餐。素者質也。人但有質朴、而無治民之材、名曰素餐。
 何をか素餐と謂ふ。素とは質なり。人の但だ質朴有るのみにして、民を治むるの材無き、
 名づけて素餐と曰ふ。
尸禄者、頗有所知、善悪不言、黙然不語、苟得禄而已、譬若尸矣。
 尸禄とは、頗る知る所有るに、善悪を言はず、黙然として語らず、
 苟(かりそ)めに禄を得るのみなること、
 譬ふれば尸(しかばね)の若し。

さて、清朝の陳喬樅「韓詩遺説攷」五は、*
曹植「求自試表」の前掲部分を挙げ、
また、魚豢の言(『魏志』巻3・明帝紀の裴松之注に引く)にいう、
次のフレーズを併せて引いて、両者はともに韓詩に基づくと指摘しています。

為上者不虚授  上の位にある者は、根拠もないのにむなしく官職を授けず、
処下者不虚受  下に居る者は、根拠もないのにむなしくそれを受け取らない。
然後外無伐檀之歎  そうして後に、外には「伐檀」の嘆きが無くなり、
  内無尸素之刺  内には給料泥棒の風刺が無くなる。

曹植と魚豢とは、ほぼ同時代の人ではありますが、一見接点はなさそうな二人です。
それが、どういうわけでこのように近似した表現をしているのか、
もう少し考えてみたいと思います。

2020年11月18日

*陳寿祺撰・陳喬樅述『三家詩遺説考』(王先謙編『清経解続編』巻1154)所収。