熹平07年(178)24歳:巻1「武帝紀」裴注引『魏書』:曹操の従妹の夫、宋奇が誅せられたのに連座して免官。後に、古学に明るいことによりまた議郎となった。これより前、陳蕃・竇武らが宦官殺害を謀って却って殺された事件(168年)について、曹操は上書して、陳蕃・竇武らは正しかったのに害されたこと、奸邪が朝廷に満ち、善人が閉塞状況にあることを述べた。その言葉は非常に切実であったが、霊帝は用いることができなかった。その後、民の批判を受けている州県の官僚を罷免せよとの詔勅が出されたが、三公は不正邪悪で、賄賂が横行し、勢力の有無により処遇に不当な落差が出た。曹操はこれを憎んだ。この年、天変地異をきっかけに広く政治の得失が問われたので、曹操は再び上書して厳しく諌めた。天子は三府に示して譴責し、謡言で懲罰を受けた者たちは皆議郎に拝せられた。この後、政治教化は日々に乱れてゆき、世の中が破壊された。曹操は匡正できないことを知って、とうとう再び発言することはなくなった。1-p.3*, 1-p.012** 只今、制作中です。