光和07年(184)30歳:巻1「武帝紀」裴注引『魏書』:長吏は貪婪に賄賂を取っていたが、貴戚を後ろ楯としていたので、歴代の相は検挙できなかった。曹操が来て、皆検挙したと聞き、大物も小物も恐れおののき、他の郡へ逃亡した。政教は大いに行われ、郡内は一掃された。その初め、城陽景王劉章は漢に功績があったので、その国は彼の祠を立てた。青州の諸郡は皆それを摸倣したが、済南は最も盛んで、六百餘もの祠があった。商売人の中には郡の太守の輿服をまね、倡楽を設けたりする者もあり、奢侈が日々にひどくなり、人民はそのために困窮したが、歴代の長吏には敢えてこれを禁じることのできる者はいなかった。曹操が赴任すると、それらの祠を全て壊し、官吏・人民にそうした祭祀を禁じた。政を執り行うようになってからは、邪悪な宗教行事を除去し、世の中の淫祀はこれにより絶滅した。1-p.4*, 1-p.013** 只今、制作中です。