建安05年(200)46歳:巻1「武帝紀」:春正月、董承らは謀反が漏れ、皆誅せられた。曹操は自ら東に赴いて劉備を討とうとしたが、諸将は皆「公と天下を争う者は袁紹である。今袁紹が来ようとしているのに、それを放棄して東に向うという。袁紹が後から攻めてきたらどうするのか」と言った。曹操は、「劉備は傑物だ、今撃たなければ後にきっと患いとなるだろう。袁紹は野心があっても、判断が遅いからきっと動かないだろう」と言い、郭嘉も曹操に勧めたので、東に向かって劉備を破り、その将夏侯博を生け捕りにした。劉備は袁紹のもとに走ったので、その妻子を捕らえた。劉備の将関羽が下邳に駐屯していたのを再び攻め、関羽は投降した。昌豨は寝返って劉備に付いたので、また攻めてこれを破った。曹操は官渡に戻った。袁紹はついに攻撃に出てこなかった。1-p.18*, 1-p.042**

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