建安05年(200)46歳:巻1「武帝紀」:曹操軍は白馬の包囲を解き、その民を移し、黄河沿いに西に向った。袁紹はそこで河を渡って曹操軍を追い、延津の南まで来た。曹操は兵を統率して南阪の下に駐屯させ、塁に登って見張らせ、敵騎の数が多くなったところで、騎馬の鞍を解き、馬を放った。この時、白馬から軍事物資が運ばれてきた。諸将は、敵騎は多いから、引き返して本営を守るほうがよいと考えたが、荀攸は「これは敵を餌で釣るのだ。なんでここを去ってよいものか」と言った。袁紹の騎将の文醜は劉備と五六千騎を率いて前後してやってきた。諸将はまた「馬に乗るべきでしょう」と言ったが、曹操は「まだだ」と言った。しばらくして騎馬の到来がだんだんと多くなり、分れて軍事物資に向う者も出てきた。曹操は「よし」と言い、やっとみな馬に乗った。時に騎は六百に満たなかったが、兵を放って存分に攻撃し、大いにこれを破り、文醜を斬った。顔良・文醜はともに袁紹の名将だったが、二度戦って、尽く捕えられたので、袁紹軍は大いに震え上がった。曹操は軍を官渡に戻し、袁紹は進んで陽武を守った。関羽は逃亡して劉備の下へ戻った。1-p.19*, 1-p.044** 只今、制作中です。