建安07年(202)48歳:巻1「武帝紀」裴松之注:『褒賞令』に曹操の祀文を載せていう、「故大尉橋玄は、明徳を大いに敷き広げ、博愛で寛容だった。国家はその明訓を心に念じ、士人はそのすぐれた計略を慕っている。……私は幼い頃、堂室に上ることを許され、頑迷な資質でありながら、大君子に受け入れてもらった。栄誉を増しいよいよ注目されたのは、みな彼の推薦のおかげだ。それはちょうど仲尼が自分は顔淵に及ばないと称し、李生が賈復に感じ入ったようなものだ。士は知己のために死す、私はこのことを心に懐いて忘れなかった。また、くつろいでの約束を承った。『私が死んでから、途中で経由することがあったら、一斗の酒と一羽の鶏を持って訪れ、地面に酒を注いでくれるのでなければ、車が三歩行った所で腹痛を起こしても怪しむなよ」と。即興の戯れの言葉ではあったが、親密な間柄の厚情がなければ、どうしてこのような言葉を発しよう。霊の怒りが自分に災いをもたらすと思ったからではなく、懐かしさで心が締め付けられるように痛んだからである。命を奉じて東征し、郷里に駐留し、北のかた貴公のいた土地を眺めて、貴公の陵墓を思い描いた。粗末なものを供えるので受け取られよ」と。1-p.23*, 1-p.052**

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