建安09年(204)50歳:巻1「武帝紀」:春正月、黄河を渡り、淇水を堰き止めて白溝に水を引き入れ、糧道を通じた。二月、袁尚はまた袁譚を攻撃し、蘇由・審配を留めて鄴を守らせた。曹操は軍を進めて洹水まで来ると、蘇由は投降。到着し、鄴を攻撃するのに、土山や地下道を作った。武安長、尹楷は毛城に駐屯し、上党の糧道を通じていた。夏四月、曹洪を留めて鄴を攻撃させ、曹操自ら尹楷を撃ちに行き、これを破って帰還。袁尚の将、沮鵠(沮授の子)が邯鄲を守っていたが、またこれも破る。易陽令の韓範、渉長の梁岐は県を挙げて投降、関内侯の爵位を与えられた。五月、土山や地下道を壊し、城の周囲に堀を作り、漳水を決壊させて城に流し込み、城中では過半数の者が餓死した。1-p.25*, 1-p.056**

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