建安12年(207)53歳:巻1「武帝紀」:五月、曹操軍は無終に至った。七月、洪水で沿海の道は不通となったが、田疇が道案内を申し出て、曹操はこれに従った。軍を率いて盧竜塞を出たが、塞外の道は不通となっていたので、五百里ほど山を掘り谷を埋め、白檀・平岡を経て、鮮卑族の領土を横切り、柳城を目指して東に向かった。二百里手前まで迫ったところで、敵はやっとこれを察知した。袁尚・袁煕は蹋頓・遼西単于の楼班・右北平単于の能臣抵之らとともに数万の騎兵を率いて迎え撃った。八月、白狼山に登り、兵卒が敵と遭遇したが、敵勢は甚だ盛んだった。曹操の軍は、荷車は後方にあり、よろいを着ている者は少なかったので、左右の者たちは皆恐れた。曹操は高みに登り、敵軍の隊列が揃っていないのを見ると、大いに兵を放ち、張遼を先鋒として出撃し、敵軍は総崩れとなった。蹋頓及び名王以下を斬り、胡族・漢族で投降した者は二十余万人もいた。遼東単于の速僕丸及び遼西・北平の諸豪は、その同族の人々を見捨てて、袁尚・袁煕とともに遼東に逃げ、その衆はまだ数千騎残っていた。1-p.29*, 1-p.064** 只今、制作中です。