建安12年(207)53歳:巻11「邴原伝」裴注引『邴原別伝』:曹操が三郡の単于を北伐し、昌国において宴席を設け、士大夫たちをもてなした。酒酣となって、曹操が「自分が戻ったら、鄴の留守を守っていた諸君はきっと迎えに出てくるだろう。今日か明日、きっと全員が来るだろう。来ない者はただ邴原祭酒くらいだろうか」と言い終わらないうちに、邴原がやって来た。曹操は大いに驚き喜び、出迎え、「賢者とは全く測りがたい。自分は君はきっと来ないだろうと思っていたのに、自ら出向いてくださって、本当に待望の気持ちにそってくれた」と。謁見が終わって出ると、軍中の士大夫で邴原を訪ねる者が数百人もいた。曹操は怪しんでこれを問うと、居合わせた荀彧が、「ただ邴原を訪ねれば十分だからだ」と答えた。曹操が、「この人の名の重みは、士大夫の心も傾けるのか」というと、荀彧は、「この人は一代の偉人で、士人の精華である。曹操は礼を尽くして待遇されるがよい」と。曹操は、「もとよりこれは私のたっての願いだ」と。これよりいよいよ重んぜられるようになった。邴原は軍中で官職を歴任したが、ずっと病気で臥せり、実務は担当せず、曹操に会見することも稀だった。曹操の下した令に、「邴原は名は高く徳は大きく、清らかな規範をもって世に一人卓越した存在で、私の思い通りになるような人物ではない。聞くところによると張子(張範)はなかなか彼に学ぼうとしているようだが、彼のレベルに達した者は富み、彼に追随する者は貧しくなるのではないか」と。2-p.353*, 2-p.345**

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