建安13年(208)54歳:巻12「崔琰伝」裴注引『魏氏春秋』:孔融は孫権からの使者に対して曹操への誹謗中傷の発言があったという理由で市場で処刑された。……孔融は清らかな才と高い名声を持っていたので、世の人々は多く彼の死を悲しんだ。曹操は方々からの批判を恐れ、令を発して、「太中大夫の孔融は既にその罪に伏した。が、世の人々の中にはその虚名に注目するばかりで、実体を知るものは少ない。孔融の華やかさや、好んで変異をなすのを見て、そのごまかしに目がくらみ、その俗を乱すのを察しないのだ。禰衡は孔融の論を伝授されているが、父母は人とは特別な親密さは無い。たとえば瓶器のようなもので、子はそこに一時的に入っているだけだ、と。また、もし飢饉に遭遇し、父が不肖であれば、むしろ他人を助けたほうがいい、とも言っている。孔融は天の道にはずれ、倫理を混乱させたので、市場に屍を晒したのだってまだ晩すぎたのを恨むくらいだ。更にこのことを以上に書き連ねた。諸軍の将校掾属らに示して、皆に知らしめよ」と。2-p.372*, 2-p.402**

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