建安16年(211)57歳:巻1「武帝紀」:(関中の軍閥を討伐)諸将が曹操に「初め、賊は潼関を守り、渭北の道には隙があったのに、河東から馮翊を伐たず、却って潼関で敵と対峙し、日を長引かせてから北に渡ったのはなぜでしょうか」と問うと、曹操は「賊が潼関を守っていた時に、もし私が河東から入れば、彼らはきっと退却して諸々の津を守るだろう、そうすれば西河は未だに渡れなかっただろう。私はだから兵を盛んにして潼関に向かったのだ。賊は全軍挙げて南方を守り、西河の守備がおろそかになった。だから、二人の将軍(徐晃・朱霊)は西河を思いのままに取ることができたのだ。その後、軍隊を率いて北へ渡ったが、賊が私と西河をめぐって争えなかったのは、二人の将軍の軍勢があったためである。車を連ね、柵を立て、甬道を作って南へ赴き、しばらくして勝つことができないと見せかけて、しばらく弱いような様子を示し、渭水を渡って堅い土塁をつくり、敵がやってきても出撃しなかったのは、彼らを思い上がらせるためであった。だから賊は軍営も築かずに土地の割譲を求めてきた。私は彼らの言葉に従ってこれを許したのは、彼らの意に従っておいて、安心させ備えをさせないようにするためであった。そうして士卒の力を蓄えておいて、一挙に彼らを撃った。いわゆる「急な雷には耳を覆う暇もない」である。兵には様々な変化があり、戦術はもとより一つではないのである。」始め、賊が一部来るごとに、曹操は嬉しそうな表情を見せた。賊が敗れて後、諸将がその理由を問うと、曹操は「関中への道のりは長く遠いので、もし賊がそれぞれ険阻な土地に割拠したら、これを征伐するのに一二年もなければ平定することはできないだろう。今、みな集まってきて、その衆は多くとも、お互いに服従することはなく、軍に適当な大将もいないので、一挙に滅ぼすことができて、功績を挙げることが比較的容易だ。だから私は喜んだのだ」と答えた。1-p.35*, 1-p.077**

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