建安25年(22066歳:巻1「武帝紀」裴注引『魏書』:曹操は自ら海内を統御し、諸々の悪人たちを平らげたが、その軍事を行うのにはだいたい孫子・呉子の兵法に従って、事に因っては奇襲作戦を設け、敵を欺いては勝利を収め、その臨機応変さは神のようであった。自ら兵書十万余言を著し、諸将が征伐に出かける時には、みな新しい兵書によって従事した。事に臨んでは自ら采配を揮い、これに従うものは勝利し、これに背くものは敗れた。敵に相対している時はゆったりとした態度で、まるで戦うつもりがないかのようだが、いざチャンスを捉えて勝利の波に乗る時には気力がみなぎった。だから戦うたびに常に勝利を収め、やっとのことで勝つという戦いは無かった。人を見抜く力に秀でていたから、見せ掛けで彼をだますことは難しかった。軍隊の兵士たちの間から、于禁や楽進を抜擢し、滅ぼした敵の中から、張遼や徐晃を取り上げたが、彼らはみな建国の大業を助けて功績を立て、名将に列せられた。その他、卑賤な身分から抜擢されて牧や太守に登った者は数限りなくいる。だからこそ、天下平定の大事業を起こし、文武ともに世に施すことができたのだ。軍隊を御すること三十余年の間、手には書物を手放さず、昼は軍事的策略をめぐらし、夜には経書や歴史書に思いを馳せ、高きに登りては必ず詩を賦し、新しい詩ができるとこれを管絃に乗せ、全て歌曲の歌辞となった。才能・力量とも凡人を超越し、手ずから飛鳥を射、自ら猛獣を捕らえた。かつて南皮において一日雉を射て六十三頭を捕獲した。宮室を造営したり、器材を修理したりするときは、常にその基準を作ったが、みなその用途に合致したものだった。本性は倹約家で、華美を好まず、後宮の衣服にも錦や刺繍を用いず、側に仕えるものの履物も二色は用いず、帳や屏風は壊れれば修繕し、布団も暖かければ十分として、縁飾りなども付けなかった。城や邑を攻撃して破り、美麗なる物を獲得した場合には、功績のあった者に尽く与えた。賞揚すべき勲功を上げた者には、千金を惜しまず、功績のない者が賞与を期待しても、ほんの少しも与えなかった。四方から献上された物は、群臣たちと分け合った。常に、葬送の制度や帷子の数など、煩雑なだけで無益であるのに、世間では不必要に行っていると考えていた。だから、死んだ時の衣服を、四つの衣装箱だけとあらかじめ自分で決めておいたのである。1-p.54*, 1-p.117**

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