建安25年(22066歳:巻1「武帝紀」裴注引『曹瞞伝』:曹操の人柄は軽佻浮薄で威厳がなく、音楽を好み、朝から夕方まで、常に倡優がすぐ側に仕えているという状態であった。被服は軽い絹で、自ら小さな皮袋を身につけ、ハンカチやこまごまとした物を入れていた。時には帢帽(簡便なかぶりもの)をかぶって賓客と会見した。人と談論する時は常にふざけ半分で、全く包み隠すところがなく、喜んで大笑いすると、頭を食器の中に突っ込んで、ご馳走で頭巾がびしょびしょになる、その軽佻浮薄さはこのようであった。しかし、法律を基準にすることは大変峻厳で、諸将のうち、計画が自分よりも勝っているものがあると、後に法によって処罰し、古馴染みに対する旧怨も、みな余すところなく処罰した。その処刑にあたっては、いつも受刑者に対して涙を流して嘆き悲しんだが、最後まで生かしてやることはなかった。その初め、袁忠が沛国の相であった時、法によって曹操を処罰しようとしたことがあった。沛国の桓邵もまた彼を軽んじた。兗州にいた時には、陳留の辺譲が言論でかなり曹操の気持ちを害した。曹操は辺譲を殺し、その一家を皆殺しにした。袁忠、桓邵はともに交州に避難したが、曹操は使いを太守の士夑のもとに遣って彼らを一族皆殺しにした。桓邵は出頭し、庭中で謝罪することを得たが、曹操は「跪いて死を免れることができるものか」と言って、ついに殺した。かつて行軍で麦畑の中の道を通っていた時、「士卒は麦を損なってはならぬ。これを犯した者は死刑」と命令した。騎士はみな馬を下り、麦畑に沿って馬をなだめながら進んだ。ところがその時、曹操の馬が躍り上がって麦畑の中に入ってしまったので、主簿に勅命を下して処罰を議論させた。主簿は春秋の義では、尊者には罰を加えないと答えた。曹操は、「法を制定しておいて自らこれを犯すというのでは、何を以て部下を統率することができよう。だが私は軍の統率者だから自殺することはできない。どうか自分で自分を処罰させてくれ」と言って、そこで剣を手に執って髪を割き、地面に置いた。また、ある寵姫がかつて曹操の昼寝に付き従った。曹操は彼女の膝枕で横になり、「しばらくしたら私を起こしてくれ」と言った。姫は曹操がぐっすり眠っているのを見て、すぐには起こさなかった。曹操は自ら目覚めると、棒で彼女を殺した。かつて賊を討伐した時、穀物が足りなくなったので、ひそかに担当者に「どうするか」と聞くと、担当者は「小さな枡で量って充足すればいい」と言った。曹操は「よろしい」と言った。後に、軍中では曹操が衆を欺いているとうわさになったので、曹操は担当者に「ここは特別に君の死を借りて衆を制圧しなければならない。そうでないと、事態は解決しない」と言い、かくして彼を斬り、その首を取り、「小さな枡を用い、官の穀物を盗んだので、これを軍門において斬った」という触書を出した。その残虐さ、虚偽を用いた駆け引きは、みなこれに類する。1-p.55*, 1-p.120**

只今、制作中です。