枯れ木の蘇生
こんばんは。
昨日言及した、曹植「七啓」に見える、枯れ木や涸れ沢が蘇るという表象は、
はたして本当に彼オリジナルのものなのでしょうか。
曹植の他の作品に類似表現が現れるか調べてみたところ、
片方の枯れ木についてのみ、次のような事例を認めることができました。
まず、文帝期の黄初3年(222)、31歳の時の作、
「封鄄城王謝表(鄄城王に封ぜられて謝するの表)」に、
枯木生葉、白骨更肉、非臣罪戻所当宜蒙。
枯れ木が葉を生じ、白骨に再び肉が蘇るような恩恵は、
私のような罪過あるものがかたじけなくすべきものではございません。
また、明帝期の太和3年(229)、38歳の時の作、
「転封東阿王謝表(東阿王に転封せられて謝するの表)」にも同様に、
此枯木生華、白骨更肉、非臣之敢望也。
これは、枯れ木に花が生じ、白骨に再び肉が蘇るようなことで、
私が身の程知らずにも敢えて望むものではございません。
更に、明帝期の太和5年(231)、亡くなる前年の40歳の時に奉った、
「諫取諸国士息表(諸国の士息を取るを諫むるの表)」にも、
「潤白骨而栄枯木者(白骨を潤し、枯れ木に花を咲かせる者)」という表現が見えます。
これらの事例の中では、「枯木」はいつも「白骨」と対を為しています。
先に見た「七啓」では、それが「窮沢」と並んでいました。
「七啓」は、その序に「并命王粲作焉(并びに王粲に命じて作らしむ)」とあって、
王粲は、建安22年(217)に流行り病で亡くなっていますから、
少なくともそれ以前の作であることはたしかです。
枯れ木と対を為す言葉が、「窮沢」から「白骨」に切り替わったのは、
彼の境遇の激変に因るものだったのかもしれません。
枯れ木と涸れ沢の表象が、曹植独自のものかどうかは未詳ですが、
少なくとも、彼における枯れ木の蘇生というイメージが、
生涯を通して、繰り返し思い起こされるものであったらしいことはうかがえます。
2020年12月22日