言葉の外にある思い

こんばんは。

文学研究上(自由な読書とは別に)作品を読んでいると、
その言葉の向こう側に、作者の思いが透いて見えるときがあります。
でもそれは、作者の言葉を起点に引いた推測の線上に浮かび上がってくるのであって、
その作品を離れて、読者がまったく自由に思い描いたものではありません。
このことを、昨日に続き、曹植「惟漢行」を例に述べてみます。

この作品の最後の一段四句は、昨日挙げた二句を含めて次のとおりです。
(作品全体については、こちらの訳注稿をご覧ください。)

在昔懷帝京  その昔、帝都の有り様を懐かしく思い起こせば、
日昃不敢寧  今は亡き先代は、日の傾くまで敢えて休息もせず人材登用に努めたものだ。
濟濟在公朝  その結果、立派な人士たちが威厳をもって朝廷に居並び、
萬載馳其名  永遠にその名声を馳せることになったのだ。

二句目が『書経』無逸篇を踏まえることは昨日も述べたとおりですが、
この句の「寧」、及びこれに続く句の「済済」の出典は、
『詩経』大雅「文王」にいう「濟濟多士、文王以寧(済済たる多士、文王は以て寧し)」、
そして、「済済たるは公朝に在り」という状況が出現したのは、
『史記』周本紀の記事から、賢者に対する君主の手厚い待遇によるものと知られます。

さて、ここで目に留まるのは、
『詩経』における周文王は安寧な心持ちでいるのに、
曹植「惟漢行」で周文王になぞらえられた人物(曹操)は、敢えて安寧ではないことです。
これはどういうわけか。

先代の曹操は、人材登用の現状に安住せず、この課題に尽力し続けていた。
曹植はこのことを、『詩経』との間に敢えてズレを生じさせることで表現したのでしょう。

曹植のこの詩の趣旨は、昨日も述べたとおり、
自身を周公旦になぞらえながら、周文王に相当する曹操の偉業を顕彰しつつ、
成王に重なる、即位して間もない明帝曹叡を戒めるということでした。

ならば、曹植「惟漢行」の末尾四句は、
明帝に対して、一層の人材登用に努めるように進言したものと読めます。

そして、ここからは一歩踏み込んだ推測ですが、
その登用されるべき人材の中には、自分たち諸王が含まれていたかもしれません。

曹植「惟漢行」の制作は、明帝の太和元年(227)秋からほど近い時期と推定されますが、
(このことは、すでにこちらで述べています。)
曹植はその翌年、「求自試表」(『魏志』巻19陳思王植伝、『文選』巻37)を著し、
自身の立場に相応しい役割を与えられたい旨、明帝に訴えています。

こうしてみると、上述の推測はあながち外れてもいないように思います。

2021年2月28日