後漢時代の儒者と通俗文芸

こんばんは。

曹植文学に関する、余冠英の概説論文にこうあります。

“通俗”は、当時(建安期)の新興階級の文人たちに見られる進歩的傾向で、
後漢の霊帝期にはすでにそれが認められたが、
保守的な旧階級に属する文人、たとえば蔡邕はこうした傾向に反対した。
(詳しくは『後漢書』蔡邕伝に見える。)*1

『後漢書』巻60下・蔡邕伝を通覧しましたが、
彼が文学的新潮流である通俗性を批判したような記事は見出せず、
もっぱら現実社会と切り結んで生きた儒者の、波乱万丈の生涯が記されていました。

他方、蔡邕と建安文人たちとの関わりを指摘するのは、岡村繁の所論です。*2

さて、『文選』巻27に詠み人知らずとして収載される古楽府「飲馬長城窟行」は、
『玉台新詠』巻1では、蔡邕の作だと明記されています。
『玉台新詠』に記す作者名には、それ相当の根拠がありますので、*3
この楽府詩が蔡邕の手になるとは、あながち荒唐無稽な説だとも言えません。
そして、本作品は次のとおり、余冠英が通俗的とした古詩を濃厚に反映するものです。*4

青青河辺草  青々と茂った川辺の草をながめつつ、
緜緜思遠道  連綿と続く遠い旅路にあるあの人に思いを馳せる。
遠道不可思  遠い旅路にある人に、思いを致すことはできないのだけれど、
夙昔夢見之  昨晩、夢の中でお会いした。
夢見在我傍  夢の中ではまるで私のすぐ傍にいるようだったのに、
忽覚在佗郷  ふと目覚めてみればあの人は見知らぬ土地にいるのだった。
佗郷各異県  見知らぬ土地とこちらではそれぞれ県も違っているし、
輾転不可見  転々と居所を移すあの人とは、お会いすることもかなわない。
枯桑知天風  枯れた桑の木でさえ空に吹き渡る風を感知するし、
海水知天寒  広大な海の水でさえ寒い季節の到来を察知するものだ。
入門各自媚  だが、人々は門を入るや口々に空疎なお愛想を言うばかりで、
誰肯相為言  誰も敢えて私のために言葉をかけてくれようとはしない。
客従遠方来  そこへたまたま遠方から旅人がやってきて、
遺我双鯉魚  私に二尾一対の鯉を送り届けてくれた。
呼児烹鯉魚  童子を呼んで鯉を煮るように言いつけたところ、
中有尺素書  その中に一尺の白絹にしたためた手紙が入っていた。
長跪読素書  ひざまずいて白絹の手紙を読んだところ、
書上竟何如  手紙には、さていったいどのように書かれていたかというと、
上有加餐食  初めには、しっかりご飯を食べるようにとあり、
下有長相憶  最後には、いつまでもあなたのことを思っているとしたためられていた。

後漢時代の儒者たちは、必ずしも儒学一辺倒ではありません。*5
人の世の推移は、ページがめくられるようにぱらりと切り替わるわけではなくて、
様々なシーンが重層的に共存しつつ推移していくものだと思います。

2021年3月8日

*1 余冠英「建安詩人代表曹植」(『漢魏六朝詩論叢(中華現代学術名著叢書)』商務印書館、2016年)p.75を参照。
*2 岡村繁「蔡邕をめぐる後漢末期の文学の趨勢」(『日本中国学会報』第28集、1976年)を参照。
*3 こちらの論文№14、著書№4のpp.24―27を参照されたい。
*4 この楽府詩における古詩の影響については、論文№30、前掲の著書pp.351―353を参照されたい。
*5 論文№25、前掲の著書pp.388―401を参照されたい。