曹丕の悲しさ

こんばんは。

以前わたしは曹丕のことを、弟を冷遇した酷い兄だと思っていました。
けれども、曹丕の実像は、そうではないのかもしれません。

不遇な生涯を送った曹植と、彼を苛め抜いた兄という構図の物語が、
時の経過とともにだんだんと増幅していったのではないか。
こうしたことはかつてこちらでも述べましたが、
よく知られている「七歩詩」も、そうした流れの中で生じたものかもしれません。

では、なぜそうした兄弟の悲劇を強調する逸話が増殖していったのか。
その原因のひとつに、続く西晋王朝の武帝とその弟との関係があったかもしれません。
晋の武帝司馬炎は、才能豊かな弟の司馬攸を遠方へ追いやり、
それが原因で司馬攸は憤死、司馬炎もそのことを後で非常に悔いたといいます。
(このことは、こちらの論文№43でも、日々雑記でも何度か述べています。)

たとえば、西晋以降の人々が、司馬炎と司馬攸との不幸な関係を、
曹丕と曹植とに重ねて評論するようなことがあったかもしれないと思うのです。

曹丕の実像は、たしかに君主としては凡庸でしたが、
その為人はむしろたいへんに心の優しい、それだけに臆病な人だったのではないか。
(こうしたことについては、こちらの論文№34でも、日々雑記でも何度か触れました。)
臆病であるだけに、弟たちの存在が脅威に思えてならなかったのでしょう。
弟たちへの冷酷な仕打ちは、自信のなさから来るものだったのではないでしょうか。

他方、その弟である曹植の方は、曹丕自身を直接非難してはいません。
自分たちと君主との間を、第三者の讒言が隔てるのだという捉え方をしています。
彼は案外、ほんとうに兄を慕い続けていたのかもしれません。
皮肉や批判も、親しさゆえの無遠慮とも取れます。

何度も昔の拙論を持ち出して自分でも辟易していますが、
ゆきつもどりつしながら、少しずつ曹丕・曹植兄弟への理解を深めていきます。

2021年3月18日