曹操の凄み

こんばんは。

先日、曹丕に曹植のことを讒言した者たちは悲しい、
この悲しさを起点に考えると、曹操の力量の大きさが思われる、と述べました。
何が言いたかったのかということを、少し説明したいと思います。

曹操は、その祖父が宦官曹騰、父曹嵩は、その養子です。

そして、宦官による知識人弾圧は、当時まだ人々の記憶に新しい出来事でした。
宦官が知識人を投獄した第一次党錮の禁は、曹操が13歳の時、
第二次党錮の禁は、彼が15歳の時に当たります。

宦官の家は、経済的には非常に裕福でしたが、
知識人層から見れば、憎むべき仇、唾棄すべき卑しい家柄だったはずです。

曹操は若い頃から、こうした知識人たちの間で揉まれてきました。
凡庸な人間だったら、彼らに気後れし、下手に出て迎合したかもしれません。
ところが曹操は、そんな風にはなりませんでした。

彼ら知識人層が持つ分厚い文化資本に対して、曹操は新しい文化的価値を創出しました。
それが、それまでは遊戯的宴席文芸に過ぎなかった楽府詩への注目です。

ただ、ここで注意しなくてはならないのは、
そうした宴席文芸は、すでに知識人たちの間でも親しまれていたということです。
ただし、彼らはそれを、価値ある教養だとは認めていなかった。
そのかたくなな線引きを取り払ったのが曹操です。

曹操は、知識人たちに、彼らには見えていなかった文化的価値を提示してみせました。
そして、そのことにより彼らを靡かせることができるとも予測していたと思われます。

これは、宦官の家に生まれた彼は伝統的な価値観からは自由でいられた、
といったような軽やかなものではなくて、
もっと凄みのある知性であるとわたしは思います。

なお、上述のことは、こちらの学術論文№25で論じたことがあります。
先行研究との対話については、そちらをご覧ください。

2021年3月22日