『焦氏易林』と歴史故事(再び承前)
こんにちは。
今日も昨日の続きを少しばかり。
『焦氏易林』巻2、「賁」之「升」にこうあります。
随和重宝 随侯の珠や和氏の璧といった貴重な宝物は、
衆所貪有 大衆が貪欲に所有しようとするものだ。*1
相如睨柱 藺相如は、和氏の璧を手にして柱を睨みつけ、
趙王危殆 趙王の命運は危機的状況だ。
後半3・4句目は、藺相如のいわゆる「完璧」の故事を踏まえたものです。
秦の昭王は、趙の恵文王が和氏の璧を手に入れたことを聞きつけ、
それと十五城とを交換しようと持ち掛けてきました。
この交渉のために秦へ出向いたのが藺相如です。
藺相如は、秦王が和氏の璧を取り、十五城を引き渡すつもりがないのを見ると、
璧に瑕疵があると欺いてこれを奪還し、柱に撃ちつける身振りを取って強気の交渉に出ます。
『史記』巻81・廉頗藺相如列伝は、この一連の経緯を活写して、その中にこうあります。
相如持其璧睨柱、欲以撃柱 相如は其の璧を持ちて柱を睨み、以て柱に撃たんと欲す。*2
この場面は非常に劇的で、漢代画像石にも割合よく描かれているところです。*3
この他、『史記』廉頗藺相如列伝に見える劇的な表現として、
たとえば藺相如が秦王から和氏の璧を奪還した後の様子を次のように描写しています。
王授璧、相如因持璧却立、倚柱、怒髪上衝冠、謂秦王曰……
王は璧を授け、相如は因りて璧を持ちて却きて立ち、柱に倚り、
怒髪上りて冠を衝き、秦王に謂ひて曰く……
「怒髪上衝冠」に類似する表現は、
たとえば『史記』巻86・刺客列伝に、荊軻が刺客として秦へ出発するのを見送る一同の様子を描写して、
「士皆瞋目、髪尽上指冠(士は皆目を瞋(いか)らせ、髪は尽く上りて冠を指す)」と、
また、『史記』巻7・項羽本紀に、鴻門の会に乱入した樊噲の様子を描写して、
「瞋目視項王、頭髪上指、目眥尽裂(目を瞋せて項王を視、頭髪は上に指し、目眥(まなじり)は尽く裂く)」とあります。
更に、後漢時代に上演されたことが確実な「鼙舞歌」の、
その忠実な祖述作品であると判断される曹植「鼙舞歌・孟冬篇」にいう、
「張目決眥、髪怒穿冠(目を張りて眥を決し、髪は怒りて冠を穿つ)」も想起されます。*4
要するに、これらは激情が最高潮に達したところで出てくる類型的な辞句で、
こうした表現は、口頭によって上演されるような文芸ならではと見ることができそうです。
また、藺相如の「完璧」の故事が演劇的であることは、
その会話を主体とする文体に、繰り返しが認められることからも推し測られます。*5
しかも、それが漢代画像石に描かれていることも、
この故事が語り物か演劇として上演されていた可能性を示唆しています。*6
『焦氏易林』は、こうした漢代の文芸をごく自然に吸収して成ったものなのでしょう。
曹植もその同じ空気を呼吸していたのだと思われます。
(ことによっては『焦氏易林』を愛読していたとも想像されます。)
2021年4月15日
*1「所」字、叢書集成初編所収の『焦氏易林』は「多」に作り、「別本作所」と注記する。今、この別本に従っておく。
*2 劉銀昌「『焦氏易林』詠史詩探析」(『渭南師範学院学報』第26巻第1期、2011年1月)に、『焦氏易林』が『史記』のこの表現を直接用いていることを指摘する。
*3 張道一『漢画故事』(重慶大学出版社、2006年)p.98―101、長廣敏雄『漢代画象の研究』(中央公論美術出版、1965年)p.90を参照。
*4 柳川順子「漢代鼙舞歌辞考―曹植「鼙舞歌」五篇を媒介として―」(『中国文化』第73号、2015年)(こちらの学術論文№39)を参照されたい。
*5 宮崎市定「身振りと文学―史記成立についての一試論―」(『宮崎市定全集5』岩波書店、1991年。初出は『中国文学報』第20冊、1965年4月)を参照。
*6 柳川順子「漢代画像石と語り物文芸」(『中国文学論集』第43号、2014年12月)(こちらの学術論文№38)を参照されたい。