曹植「責躬詩」への疑問3

こんにちは。

曹植「責躬詩」への疑問、
今日は、こちらの25・26行目にいう、
「股肱弗置、有君無臣。荒淫之闕、誰弼余身
(股肱は置かれず、君有りて臣無し、荒淫の闕、誰か予が身を弼けん)」についてです。

これらの句は、いつの時点でのことを指して言っているのでしょうか。

その前に並ぶ句は、おおよそ次のように捉えることができます。
(詳細は、訳注稿をご覧いただければ幸いです。)
23行目「違彼執憲、哀予小臣」は、特別に受刑を免れて、安郷侯に封ぜられたこと、
24行目「改封兗邑、于河之浜」は、すぐに安郷から鄄城へ封土を移されたこと。

すると、これに続く前掲の四句は、鄄城での出来事だと見られます。

実際、鄄城侯に封ぜられた黄初二年(221)から翌年にかけて、
曹植は東郡太守の王機らから誣告され、朝廷に罪を得ていることが、
彼自身による「黄初六年令」の中に確認できます。
(訳注稿は未完性ですが、原文と訓み下しをこちらに提示しておきます。)

鄄城は、東郡太守の配下にある土地です。*
曹植の動向を逐一監視し、その落ち度を数え上げるのは容易なことだったでしょう。

こう捉えることが妥当であるならば、
前掲の四句の中で、曹植は自身を「君」といい、
君主を補佐する「股肱」はおらず、君主を「弼(たす)」ける臣下がいない、
と言っていることになります。

この言い方は、罪を得た者として、少し傲岸なようにも感じられます。

けれど、本詩11行目に、文帝の命として「君茲青土(茲の青土に君たれ)」とあるので、
この時に封ぜられた青州の臨淄侯を指して言うばかりでなく、
封を改められた鄄城侯をも「君」と称することに何ら不都合はないのでしょう。

もし、上述のような理路が通っているならば、
ここに、この時点での曹植のあり様のありのままを窺うことができそうです。

2021年12月31日

*黄節『曹子建詩註』(中華書局香港分局、1973年)p.25に、「鄄城属東郡、王機為東郡太守、誣子建、是子建時為鄄城侯也(鄄城は東郡に属し、王機は東郡太守為り、子建を誣せるは、是れ子建時に鄄城侯為るなり)」と指摘している。