04-19-1 責躬 有表

04-19-1 責躬 有表  躬(み)を責む 表有り

【解題】
自身の罪を責める詩。本作品の成立背景については「上責躬応詔詩表」(04-19-0)を参照。『文選』巻二十、『三国志(魏志)』巻十九・陳思王植伝、『詩紀』巻十四所収。テキストは、基本的に『文選』に拠る。

於穆顕考  於(ああ)穆たる顕考、
時惟武皇  時(こ)れ惟(こ)れ武皇。
受命于天  命を天に受けて、
寧済四方  四方を寧(やす)んじ済(すく)ふ。
朱旗所払  朱旗の払ふ所、
九土披攘  九土は披(ひら)き攘(はら)はる。
玄化滂流  玄化 滂(あまね)く流れ、
荒服来王  荒服 来王す。」
超商越周  商を超え周を越え、
与唐比蹤  唐と蹤(あと)を比(なら)ぶ。
篤生我皇  篤く我が皇を生み、
奕世載聡  奕世 聡きを載(な)す。
武則粛烈  武は則ち粛烈、
文則時雍  文は則ち時雍。
受禅于漢  禅(ゆず)りを漢に受け、
君臨万邦  万邦に君臨す。」
万邦既化  万邦 既に化し、
率由旧則  旧則に率ひ由る。
広命懿親  広く懿親に命じ、
以藩王国  以て王国に藩たらしむ。」
帝曰爾侯  帝曰く 爾 侯よ、
君茲青土  茲の青土に君たれと。
奄有海浜  奄(おほ)いに海浜を有し、
方周于魯  周の魯に于(お)けるに方(なら)ぶ。
車服有輝  車服 輝有り、
旗章有叙  旗章 叙有り。
済済雋乂  済済たる雋乂、
我弼我輔  我がきみを弼け我がきみを輔く。」
伊余小子  伊(こ)れ余小子は、
恃寵驕盈  寵を恃みて驕盈なり。
挙挂時網  挙ぐれば時網に挂(か)かり、
動乱国経  動けば国経を乱す。」
作藩作屏  藩と作(な)り屏と作るも、
先軌是隳  先軌をば是れ隳(やぶ)る。
傲我皇使  我が皇使に傲り、
犯我朝儀  我が朝儀を犯す。」
国有典刑  国に典刑有り、
我削我黜  我をば削り我をば黜す。
将寘于理  将に理に寘(お)きて、
元兇是率  元兇をば是れ率(みちび)かんとす。」
明明天子  明明たる天子、
時惟篤類  時(こ)れ惟れ類に篤し。
不忍我刑  忍びず 我をば刑して、
暴之朝肆  之を朝肆に暴(さら)すには。」
違彼執憲  彼の執憲に違ひて、
哀予小臣  予小臣を哀れむ。
改封兗邑  封を兗邑に改めて、
于河之浜  河の浜(ほとり)に于(ゆ)かしむ。
股肱弗置  股肱は置かれず、
有君無臣  君有りて臣無し。
荒淫之闕  荒淫の闕、
誰弼余身  誰か予が身を弼(たす)けん。」
煢煢僕夫  煢煢たる僕夫、
于彼冀方  彼の冀方に于(ゆ)く。
嗟余小子  嗟(ああ) 余(われ)小子、
乃罹斯殃  乃ち斯(こ)の殃(わざはひ)に罹る。」
赫赫天子  赫赫たる天子、
恩不遺物  恩 物を遺さず。
冠我玄冕  我に玄冕を冠せしめ、
要我朱紱  我に朱紱を要(お)びしむ。」
光光大使  光光たる大使、
我栄我華  我をば栄えしめ我をば華(さか)んにす。
剖符授土  符を剖きて土を授け、
王爵是加  王の爵 是れ加ふ。」
仰歯金璽  仰ぎては金璽に歯(つら)なり、
俯執聖策  俯しては聖策を執る。
皇恩過隆  皇恩 過ぎて隆んに、
祗承怵惕  祗(つつし)み承けて怵惕す。」
咨我小子  咨(ああ)我小子、
頑凶是嬰  頑凶 是れ嬰(まつ)わる。
逝慙陵墓  逝きては陵墓に慙ぢ、
存愧闕庭  存しては闕庭に愧づ。」
匪敢傲徳  敢へて徳に傲(おご)るに匪(あら)ず、
寔恩是恃  寔(まこと)に恩を是れ恃(たの)むなり。
威霊改加  威霊 改め加はり、
足以没歯  以て歯(よはひ)を没するに足る。」
昊天罔極  昊天 極まり罔(な)く、
生命不図  生命 図られず。
常懼顛沛  常に懼る 顛沛して、
抱罪黄壚  罪を黄壚に抱かんことを。」
願蒙矢石  願はくは 矢石を蒙り、
建旗東岳  旗を東岳に建てんことを。
庶立毫氂  庶(ねが)はくは 毫氂を立て、
微功自贖  微功もて自ら贖(あがな)はんことを。」
危躯授命  躯を危くして命を授けば、
知足免戻  足るを知りて 戻(とが)を免れん。
甘赴江湘  甘んじて江湘に赴き、
奮戈呉越  戈を呉越に奮はん。」
天啓其衷  天 其の衷を啓き、
得会京畿  京畿に会するを得たり。
遅奉聖顔  聖顔に奉ぜんことを遅(おも)ひ、
如渇如飢  渇するが如く飢うるが如し。
心之云慕  心の云に慕(した)ひ、
愴矣其悲  愴(いた)みて其れ悲しむ。
天高聴卑  天は高きも卑(ひく)きに聴く、
皇肯照微  皇 肯(あ)へて微を照らせ。」

【通釈】
ああ、うるわしき父なる高祖、それはすなわち武皇帝。天より命を受けて、天下四方を安らかに平定された。漢王朝の朱色の旗が通過したところ、中国全土がなびいてへりくだった。奥深い道に基づく教化があまねく行きわたり、最も遠い異域の人々も帰順してきた。
魏王室は、商や周の王朝をも凌ぎ、その足跡は堯に並ぶ。天の篤い祝福を受けて我が皇が誕生し、父子二代にわたって聡明でいらっしゃる。武の方面では厳粛であり、文の方面では民たちに和平がもたらされた。かくして、魏は漢王朝から禅譲を受け、万国に君臨することとなった。
万の国々が十分に教化されると、古くからの典範に則って、広く骨肉の弟たちに命じて、魏王朝の藩としての役割を担うよう指示された。皇帝陛下はおっしゃった、「そなた臨淄侯よ、この青州の土地に君主たれ」と。広く海浜一帯を保有することとなり、これは周王朝が周公旦の長子を魯に封じたのに匹敵する。諸侯に下賜された車や衣服は輝きわたり、各地位を示す旗印は整然と並んでいる。ずらりと居並んだ、才徳兼備の人士たちは、我が君の片腕として輔佐に当たるのだ。
ああ、わたくしめは、お上に目をかけられているのをよいことに驕り高ぶり、その振る舞いは、どうかすると、世間の掟に抵触し、国の規範を乱した。王朝の籬として防備の任に当たるべきなのに、先人の規範を台無しにしてしまい、我が皇の使者に傲慢な態度を取り、我が朝廷の規律を犯した。
国家には典拠とすべき刑法があって、これによりわが封土は削られ、わが爵位は落とされることとなった。今これから獄吏に引き渡され、大罪を犯した自分が指導されることとなったとき。聡明なる天子は、身内の者に手厚く対処しようと思われた。わたくしを処罰して、その身を朝廷や市場に晒すには忍びなかったのである。
天子はかの司法官の意向に背いて、わたくしめを哀れんでくださった。そして、封土を兗州の町(鄄城)に改め、黄河のほとりに赴かせることとなった。だが、輔佐してくれる大臣も置かれず、主君はいても臣下はいない。荒んだ無軌道きわまりない過ちを犯しても、誰がわが身を矯め直してくれようか。ぽつんとひとりの御者を連れて、かの冀方(魏の都・洛陽)へと赴いた。ああ、わたくしめは、かくしてこの禍に遭遇したのである。
だが、明々と輝ける徳を有する天子、その恩沢は万物に対して遺漏がない。わたくしに黒い冠冕をかぶらせ、わたくしの腰に朱色の組み紐を佩びさせた。光り輝く大使がやってきて、わたくしに栄華が届けられた。割り符を割いて封土を授与し、これに王の爵位が加えられたのである。仰いでは金印を授けられた諸侯に並び、目を伏せては聖皇から下された任命書を手にする。皇帝からの恩沢は身に余るほど盛大で、謹んで承りながらも、畏れに打ち震える思いだった。
ああ、わたくしめには、かたくなで凶悪な性質がまとわりついている。死んでは陵墓に眠る高祖に顔向けできず、生きては宮廷にいます陛下に恥じ入るばかりだ。徳ある陛下に敢えて傲慢な態度を取ろうというのではない。ただひたすらにその御恩にすがりたいのである。霊妙なる威力が改めて加えられるならば、その恩恵により、十分に一生を終えることができよう。天の徳は果てしなく、それに報いようにも、人の命は予測ができない。躓いて倒れ、黄泉の国まで罪を抱えていくことになるのではないかと、いつも心配だ。
できることならば、出兵して矢や石を身に受けてでも、魏の旗を東方の太山に打ち立てたい。どうか、ほんのわずかでも手柄を上げて、ささやかな功績により自らの罪を贖わせてほしい。身を危険にさらして命を投げ出し、身のほどをわきまえて落ち度のないよう勉めよう。喜んで長江や湘水のほとりに赴き、戈を呉越の地に振り回す所存だ。
天子がその胸襟を開いてくださったおかげで、都にてお会いできることとなった。ご尊顔を拝する機会を待ちわびて、喉が渇き空腹に堪えかねんばかりの気持ちでいる。心の底からお慕いし、胸の内は悲痛でいっぱいだ。天は高きにあっても低き存在の声に耳を傾けるという。天子よ、どうかこの微賤な者に光を恵んでくださいますよう。

【語釈】
○於穆顕考、時惟武皇 「於」は、感嘆詞。「穆」は、讃美の形容詞。『毛詩』周頌「清廟」に、「於穆清廟(於穆たる清廟)」、毛伝に「於、歎辞也。穆、美(於は、歎辞なり。穆は、美なり)」と。「顕考」は、高祖。『礼記』祭法に「王立七廟……曰顕考廟(王は七廟を立つ……曰く顕考廟)」と見え、その正義にこう説明する。また、今は亡き父をもいう。『書経』康誥に「惟乃丕顕考文王(惟れ乃が丕顕考なる文王)」、孔安国伝に「惟汝大明父文王(惟れ汝が大明なる父なる文王)」と。ここでは、魏王朝の創始者であり、曹丕・曹植らの亡父である曹操を指す。「時惟」は、特に意味のない助字。たとえば、『書経』多士に「時惟天命(時れ惟れ天命なり)」、『毛詩』大雅「大明」に「時維鷹揚(時れ維れ鷹揚なり)」と。「惟」は「維」に同じ。「武皇」は、魏の武帝、曹操。類似句が、曹植の「武帝誄」に「於穆武皇(於穆たる武皇)」と見える。
○受命於天 天から命を受ける。『毛詩』大雅「文王」小序に「文王受命作周也(文王は命を受けて周を作るなり)」、鄭箋に「受天命而王天下(天命を受けて天下に王たり)」と。
○寧済四方 天下を安んじ治める。類似表現として、『文選』李善注に引く傅毅「明帝頌表」に「体天統物、寧済蒸民(天を体して物を統べ、蒸民を寧んじ済ふ)」と。
○朱旗所払、九土披攘 「朱旗」は、漢王朝の旗。朱色は、五行でいう火徳を有する漢王朝を表象する。曹操は生前、後漢王朝の臣下という立場であっため、この色の旗を用いる。例として、『文選』李善注に引く李陵「与蘇武書」に、「雷鼓動天、朱旟翳日(雷鼓は天を動かし、朱旟は日を翳ふ)」と。「九土」は、九州に同じ。中国全土。用例として、宋玉「登徒子好色賦」(『文選』巻十九)に「臣少曾遠遊、周覧九土、足歴五都(臣は少きとき曾て遠遊して、周く九土を覧、足は五都を歴たり)」と。この両句は、曹植「漢高帝賛」(06-26)にいう「朱旗既抗、九野披攘(朱旗既に抗げられ、九野披き攘はる)」に類似する。
○玄化滂流 「玄化」は、奥深い道徳に基づく聖なる教化。用例として、蔡邕「陳留太守行小黄県頌」(『藝文類聚』巻五十)に「玄化洽矣、黔首用寧(玄化洽く、黔首は用て寧らかなり)」と。
○荒服来王 「荒服」は、王城からの距離で区分した五つの区域、侯・甸・綏・要・荒の五服(『書経』益稷)のうち、最も遠い地域。異民族の住む辺境をいう。「来王」は、異民族が王朝に帰順してくる。一句は、『書経』大禹謨にいう「四夷来王(四夷来王す)」を踏まえる。
○超商越周、与唐比蹤 「唐」は、堯が天子となる前に有していた領土。ここではその人を指す。二句は、魏王朝が後漢王朝の禅譲を受けて成立したという点で、前の王朝を武力で倒した商(殷)や周よりも優れ、平和裏に帝位を舜に譲った堯の徳に並ぶことをいう。
○篤生我皇 「我皇」は、文帝曹丕をいう。一句は、『毛詩』大雅「大明」に「篤生武王(篤く武王を生む)」、鄭箋に「天降気于大姒、厚生聖子武王(天は気を大姒に降し、厚く聖子武王を生む)」とあるのを踏まえて、周の武王と曹丕とを重ねる。
○奕世載聡 「奕世」は、代々。『国語』周語上に、祭公謀父が歴代の王を称賛していう「奕世載德(奕世德を載(な)す)」を用いる。ここでは、武帝、文帝の二代にわたる聡明さをいう。
○武則粛烈 「粛烈」は、厳粛で威厳がある。『毛詩』商頌「長発」に、商の始祖契の孫、相土を讃えて「相土烈烈(相土は烈烈たり)」、鄭箋に「其威武之盛、烈烈然(其の威武の盛んなること、烈烈然たり)」と。
○文則時雍 「時雍」は、徳治により、民たちが和らぐ。『書経』堯典に「百姓昭明、協和萬邦、黎民於變時雍(百姓は昭明にして、萬邦を協和し、黎民は變に於いて時れ雍らぐ)」、孔安国伝に「時、是。雍、和也(時は、是れなり。雍は、和らぐなり)」と。
○受禅于漢  曹丕は、建安二十五年(二二〇)一月、父曹操が崩御すると、その跡を継いで丞相・魏王となり、三月、延康元年と改元、十月、後漢の献帝から皇位を譲られて、魏王朝を建て、文帝として即位し、年号を黄初と改めた(『後漢書』巻九・献帝紀、『三国志(魏志)』巻二・文帝紀)。
○君臨万邦 『書経』顧命にいう「臨君周邦、率循大卞(臨みて周邦に君たり、率ゐて大卞に循る)」、前掲の同堯典にいう「百姓昭明、協和万邦」を綴り合せた表現。
○率由旧則 『毛詩』大雅「仮楽」にいう「不愆不忘、率由旧章(愆たず忘れず、旧章に率ひ由る)」を踏まえる。その鄭箋に「愆、過。率、循也。成王之令徳、不過誤、不遺失、循用旧典之文章、謂周公之礼法(愆は、過ち。率は、循ふなり。成王の令徳、過誤せず、遺失せず、旧典の文章を循用す、周公の礼法を謂ふ)」と。
○広命懿親、以藩王国 「命」は、告げる(『爾雅』釈詁上)。「懿親」は、骨肉の兄弟に対する美称。「藩」は、諸侯が王朝を籬のように取り巻いて守ること。『春秋左氏伝』僖公二十四年に、富辰が鄭を攻めようとする周の襄王を諫めて、「昔周公弔二叔之不咸、故封建親戚以蕃屏周(昔周公は二叔の不咸なるを弔ひ、故に親戚を封建して以て周を蕃屏せしむ)」、『詩経』小雅「常棣」を引いて「如是則兄弟雖有小忿、不廃懿親(是の如くんば則ち兄弟は小忿有りと雖も、懿親を廃せず)」、杜預注に「懿、美也」と。「藩」は「蕃」に同じ。「王国」は、ここでは周王朝に比すべき魏を指す。『毛詩』大雅「文王」に「思皇多士、生此王国(思(ここ)に皇たる多士、此の王国に生まる)」と。
○帝曰爾侯、君茲青土 「帝曰爾侯」は、『書経』に散見するフレーズを用いたもの。たとえば、舜典に「帝曰、兪、往哉。汝諧(帝曰く、兪(しか)り、往(ゆ)け。汝諧(やはら)げよ)」と。ここでの「帝」は、魏の文帝(当時は魏王)曹丕を指す。曹植は、建安十九年(二一四)、臨淄侯に封ぜられ、建安二十五年(二二〇)、曹丕が魏王に即位すると、他の諸侯と共に封土への赴任を命じられた(『三国志(魏志)』巻十九・陳思王植伝)。「青土」は、昔の青州に属する臨菑をいう。類似表現として、曹植「諫取諸国士息表」(『三国志(魏志)』陳思王植伝裴注引『魏略』)に、かつて臨淄侯への赴任を命ぜられた策書を引いて、「植受茲青社。封於東土、以屏翰皇家、為魏藩輔(植よ茲の青社を受けよ。東土に封じ、以て皇家を屏翰せしめ、魏の藩輔と為す)」と。この表現は、『漢書』巻六十三・武五子伝に、劉閎を斉王に封じた策書を引いて、「嗚呼、小子閎、受茲青社。……封于東土、世為漢藩輔(ああ、小子閎よ、茲の青社を受けよ。……東土に封じ、世々漢の藩輔と為す)」とあるのを踏まえる。
○奄有海浜 「奄」は、大いに(『毛詩』大雅「皇矣」の毛伝)。『毛詩』魯頌「閟宮」に「奄有亀蒙(奄いに亀蒙を有す)」と。「海浜」は、海辺。『書経』禹貢に「海岱惟青州、……厥土白墳、海浜広斥(海岱は惟れ青州、……厥の土は白墳、海浜広斥なり)」、孔安国伝に「浜、涯也(浜とは、涯なり)」と。
○方周于魯 「方」は、並ぶ。『論語』憲問にいう「子貢方人」の何晏集解に引く孔安国注に「比方人也(人に比方するなり)」と。「魯」は、周公旦の長子、伯禽が、周の成王から封ぜられた土地。『毛詩』魯頌「閟宮」にいう「建爾元子、俾侯于魯(爾が元子を建て、魯に侯たらしめよ)」と。一句は、魏王朝の自身への待遇が、周王朝の周公旦に対するそれに匹敵することをいう。
○車服有輝 「車服」は、功に応じて皇帝から下賜される車や衣服。『書経』益稷に「車服以庸(車服は庸を以てす)」、『国語』周語上にも「為車服・旗章以旌之(車服・旗章を為して以て之を旌(あらは)す)」と。「有輝」は、『毛詩』小雅「庭燎」にいう「庭燎有輝」の表現を用いたか。
○旗章有叙 「旗章」は、地位を示す旗や幟。『礼記』月令、季夏の条に「以為旗章、以別貴賤等給之度(以て旗章を為り、以て貴賤等給の度を別つ)」、鄭玄注に「旗章、旌旗及章識也(旗章は、旌旗及び章識なり)」と。「叙」は、「序」に同じ。秩序。
○済済雋乂 「済済」は、立派な人士の大勢集うさま。『毛詩』大雅「文王」、同周頌「清廟」に「済済多士(済済たる多士)」と。「雋乂」は、人徳、才能ともに卓越した人物。『書経』皋陶謨に「俊乂在官(俊乂 官に在り)」と。「雋」は、「俊」に同じ。
○我弼我輔 「弼」「輔」も、補佐するの意。『礼記』文王世子の正義に引く『尚書大伝』に「古者天子必有四隣。前曰疑、後曰丞、左曰輔、右曰弼(古は天子には必ず四隣有り。前を疑と曰ひ、後を丞と曰ひ、左を輔と曰ひ、右を弼と曰ふ)」と。「我」は、我が君。ここでは、魏の文帝曹丕を指す。
○伊余小子 「伊」は、『毛詩』等に散見する発語の助字。一句は、『毛詩』周頌「閔予小子」にいう「維予小子、夙夜敬止(維れ予小子、夙夜敬す)」を踏まえる。「余」は、「予」と同じく一人称代名詞。「小子」は、自身をいう謙譲語。
○驕盈 驕りたかぶる。用例として、『漢書』巻一〇〇下・叙伝下、景帝十三王伝について「膠東不亮、常山驕盈(膠東は亮ならず、常山は驕盈なり)」と。
○国経 国家を治めていくための規範。『孔子家語』哀公問政に「孔子曰、凡為天下国家、有九経、曰。修身也。尊賢也。親親也。敬大臣也。体群臣也。重庶民也。来百工也。柔遠人也。懐諸侯也(孔子曰く、凡そ天下国家を為すに、九経有り、曰く。身を修むるなり。賢を尊ぶなり。親を親しむなり。大臣を敬ふなり。群臣を体するなり。庶民を重んずるなり。百工を来たすなり。遠人を柔らぐるなり。諸侯を懐くるなり)」と。
○作藩作屏、先軌是隳 『春秋左氏伝』昭公九年にいう「文武成康之建母弟、以蕃屏周、亦其陵隊是為(文・武・成・康の母弟を建てて、以て周を蕃屏するは、亦た其の陵隊(堕)是れが為なり)」を踏まえて反転させたか。「隳」は、廃するの意(『書経』益稷にいう「万事堕哉」の孔安国伝)。
○傲我皇使、犯我朝儀 曹植は酒に酔って朝廷からの使者を脅したかどで罪に問われた。『三国志(魏志)』陳思王植伝、黄初二年の条に、「監国謁者潅均希指、奏「植酔酒悖慢、劫脅使者。」有司請治罪、帝以太后故、貶爵安郷侯(監国謁者潅均は希指し、奏すらく「植は酒に酔ひて悖慢、使者を劫脅す」と。有司 罪を治(ただ)さんことを請ふも、帝は太后を以ての故に、爵を安郷侯に貶す)」と。
○国有典刑 「典刑」は、依拠すべき通常の刑法。『書経』舜典に「象以典刑(象には典刑を以てす)」、孔安国伝に「象、法也。法用常刑、用不越法(象とは、法なり。法には常刑を用ひ、用ふるに法を越えず)」と。
○我削我黜 曹植の処罰として、爵位を落とし封土を削るべしとの議論があった。『文選』李善注に引く『曹植集』に、「博士等議、可削爵土、免為庶人(博士等の議すらく、爵土を削り、免じて庶人と為す可し)」と。「削」「黜」は、韋孟「諷諌詩」(『文選』巻十九)に「嫚彼顕祖、軽此削黜(彼の顕祖を嫚(あなど)り、此の削黜を軽んず)」と見えている。
○将寘于理、元兇是率 「寘」は、置く。『周易』坎卦、上六の爻辞に「係用徽纆、寘于叢棘、三歳不得、凶(係(つな)ぐに徽纆を用てし、叢棘に寘き、三歳得ず、凶なり)」と。「理」は、監獄の役人。『礼記』月令、孟秋の条に「命理瞻傷(理に命じて傷を瞻しむ)」、その鄭玄注に「理、治獄官也(理とは、獄を治むる官なり)」と。また、司馬遷「報任少卿書」(『文選』巻四十一)に「明主不暁、……遂下于理(明主は暁(さと)らずして、……遂に理に下す)」と。「元兇」は、大罪を犯した自身を指す。「率」は、導くの意。『春秋元命苞』(『太平御覧』巻十六)に「律之為言率也(律の言為るや率なり)」、(宋均)注に「率、猶導也(率とは、猶ほ導くがごときなり)」と。
○明明天子、時惟篤類 上句は、『毛詩』大雅「江漢」にいう「明明天子、令聞不已(明明たる天子、令聞已まず)」をそのまま用いる。「時惟」は、両字とも語気助詞で、特に意味はない。「類」は、同族の者。『毛詩』大雅「既酔」に「孝子不匱、永錫爾類(孝子は匱(つ)きず、永く爾に類を錫(たま)ふ)」、鄭箋に「長以与女之族類也(長く以て女(なんぢ)に之れが族類を与ふるなり)」と。両句の内容を裏付ける記録として、『三国志(魏志)』陳思王植伝の裴松之注に引く『魏書』に、文帝の詔として「植、朕之同母弟。朕於天下無所不容、而況植乎。骨肉之親、舎而不誅、其改封植(植は、朕の同母弟なり。朕は天下に於いて容れざる所無し、而して況んや植をや。骨肉の親は、舎きて誅せず、其れ植を改封せよ)」とある。
○朝肆 朝廷や商店の連なる市場。人通りの多いところ。
○違彼執憲、哀予小臣 「執憲」は、法律を司る、あるいはそれを行う者。韋孟「諷諌詩」(『文選』巻十九)に、「明明群司、執憲靡顧(明明たる群司、憲を執りて顧みる靡し)」、揚雄「交州箴」(『古文苑』巻十四)に、「牧臣司交、敢告執憲(牧臣 交を司る、敢へて憲を執るに告ぐ)」と。「小臣」は、君主を前にした臣下自称の謙譲語。「予」と併せて、『書経』召誥に、召公奭の言動として「拝手稽首曰、予小臣、敢以王之讎民百君子、越友民、保受王威命明徳(拝手稽首して曰く、予小臣は、敢へて王の讎民百君子、越(およ)び友民を以て、王の威命明徳を保受せん)」と見える。その孔安国伝に「言我小臣、謙辞(我が小臣と言ふは、謙辞なり)」と。両句の背景にある出来事として、『三国志(魏志)』陳思王植伝の黄初二年の条に、「有司請治罪、帝以太后故、貶爵安郷侯(有司 罪を治(ただ)さんことを請ふも、帝は太后を以ての故に、爵を安郷侯に貶す)」、曹植「初封安郷侯表」(『藝文類聚』巻五十一)に「陛下哀愍臣身、不聴有司所執、待之過厚、即日於延津受安郷侯印綬(陛下は臣が身を哀愍し、有司の執る所を聴かず、之に待するに厚きに過ぎ、即日 延津に於いて安郷侯の印綬を受く)」と。
○改封兗邑、于河之浜 「兗邑」は、兗州に属する鄄城を指す。鄄城は東郡に属し、古くは兗州の領域であった。『書経』禹貢に「済河惟兗州(済河 惟れ兗州なり)」と。その位置は、「河之浜」すなわち黄河の岸辺に当たる。両句の背景にある出来事として、前掲の『三国志(魏志)』陳思王植伝、黄初二年の条に、「貶爵安郷侯」に続けて「其年改封鄄城侯(其の年に封を鄄城侯に改む)」と。
○股肱 君主を補佐する臣下。李善注に引く『尚書大伝』に「股肱惟臣(股肱は惟れ臣なり)」、『文選』巻五十八、王倹「褚淵碑文」の李善注に引くところには、「元首明哉、股肱良哉。元首、君也。股肱、臣也(元首は明らかなるかな、股肱は良きかな。元首は、君なり。股肱は、臣なり)」と。
○荒淫之闕、誰弼予身 「荒淫」は、節度なく、堕落した状態に溺れる。『文選』巻十九、韋孟「諷諌」詩の序に、「孟為元王傅、傅子夷王及孫王戊。戊荒淫不遵道。作詩諷諌(孟は元王の傅為り、子の夷王及び孫の王なる戊に傅たり。戊は荒淫にして道に遵はず。詩を作りて諷諌す)」とあるのを念頭におく。「闕」は、欠けていること、過失。「弼」は、あやまちをため直して補佐する。
○煢煢僕夫、于彼冀方 「煢煢」は、ぽつんとひとりでいるさま。「僕夫」は、御者。李善注に引く『大戴礼』に、「驪駒在門、僕夫具存(驪駒は門に在り、僕夫は具(そろ)ひて存す)」と。「于」は、往く(『毛詩』周南「桃夭」の「之子于帰」の毛伝ほか)。「冀方」は、『書経』五子之歌に「惟彼陶唐、有此冀方(惟れ彼の陶唐、此の冀方を有す)」、孔安国伝に「陶唐、帝堯氏。都冀州統天下四方(陶唐は、帝堯氏なり。冀州に都して天下四方を統ぶ)」とあるのを踏まえて、魏王朝の都、洛陽を指すと捉えておく。曹植「黄初六年令」(08-02)によると、彼は鄄城侯であった時期、東郡の太守王機らの誣告を被り、朝廷に罪を得たが、赦されて旧居に戻り、雍丘に封ぜられた黄初四年(二二三)までの足掛け二年間、蟄居生活を送った。この記事を踏まえ、両句は、鄄城侯であった時に得た罪により、都に召喚されたことを指すと見ておく。他方、「冀方」とは冀州であり、その南端に位置する鄴を指すと見る説もある。鄴は、魏王朝成立以前、後漢の魏王国の都であった。李善注、及び黄節『曹子建詩註』は、曹植は安郷侯に封ぜられたとはいえ、鄴に滞在していたと解釈している。他方、古直『曹子建詩箋』は、「冀方」が洛陽を指すとする説を是とし、この語を以て中国中央部を指す事例を多数挙げている。
○赫赫天子 「赫赫」は、徳が明々と輝かしいさま。『毛詩』大雅「大明」に「明明在下、赫赫在上(明明として下に在り、赫赫として上に在り)」、鄭箋に「明明者文王武王、施明徳于天下、其徴応炤晳見於天(明明たる者は文王武王、明徳を天下に施して、其の徴応は炤晳にして天に見はる)」、小序に「大明、文王有明徳、故天復命武王也(大明は、文王に明徳有り、故に天は復た武王に命ずるなり)」と。
○恩不遺物 『易』繋辞伝上に、易のはたらきを述べて「範囲天地之化而不過、曲成万物而不遺(天地の化を範囲して過ぎず、万物を曲成して遺さず)」とあるのを踏まえ、天子からの恩沢に遺漏のないことをいう。李善注は、この部分について「謂至京師、蒙恩得還也(京師に至りて、恩を蒙り還るを得たるを謂ふなり)」と解釈し、曹植「求習業表」(佚)に「雖免大誅、得帰本国(大誅を免れて、本国に帰るを得たりと雖も)」とあるのを引く。
○玄冕 諸王の正装で用いられる黒い冠。『周礼』夏官、弁師に「掌王之五冕。皆玄冕、朱裏、延紐(王の五冕を掌る。皆玄冕、朱裏、延紐なり)」と。
○朱紱 公侯がその佩玉に付ける朱色の組紐。『礼記』玉藻に「公侯佩山玄玉而朱組綬(公侯は山玄玉を佩びて朱の組綬なり)」と。『文選』李善注に引く『蒼頡篇』に「紱、綬也」と。また、『毛詩』小雅「采芑」「斯干」に「朱芾斯皇(朱芾は斯れ皇く)」と。「紱」は「芾」に同じ。
○光光大使、我栄我華 『三国志(魏志)』本伝に引くところは「朱紱光大、使我栄華(朱紱光大にして、我をして栄華ならしむ)」に作る。これだと、前掲注に示した『毛詩』に響きあう表現となる。李善注は、「栄」「華」について、『文子(通玄真経)』上徳にいう「有栄華者、必有愁悴(栄華有る者は、必ずや愁悴有らん)」の影響を指摘する。
○剖符授土、王爵是加 司馬相如「喩巴蜀檄」(『文選』巻四十四)に、王朝の辺境の士への待遇を述べて、「故有剖符之封、析珪而爵(故に符を剖くの封、珪を析かちて爵する有り)」と。両句に対応する事実として、前掲の『三国志(魏志)』本伝に、黄初二年の鄄城侯への改封を記した後に、「三年、立為鄄城王、邑二千五百戸。四年、徙封雍丘王(三年、立ちて鄄城王と為り、邑二千五百戸。四年、封を雍丘王に徙す)」とある。
○歯 並ぶ。『春秋左氏伝』隠公十一年に、羽乳が薛侯に説いて「寡人若朝于薛、不敢与諸任歯(寡人 若し薛に朝せば、敢へて諸任と歯ばず)」、杜預注に「歯、列也」と。
○金璽 皇帝から諸侯王に与えられる金印。『漢書』巻十九上・百官公卿表上に、「諸侯王、高帝初置、金璽盭綬、掌治其国(諸侯王は、高帝初めて置き、金璽・盭綬、其の国を治むるを掌る)」と。
○聖策 聖なる皇帝から下される任命書。ここでは、諸王を封ずるもの。例として、『史記』巻六十・三王世家に、武帝による「斉王策」「燕王策」「広陵王策」を載せる。
○皇恩 皇帝の恩徳。用例として、張衡「西京賦」(『文選』巻二)に「皇恩溥、洪徳施(皇恩 溥(あまね)く、洪徳 施す)」と。
○祗承怵惕 「祗承」は、『書経』大禹謨に「文命敷於四海、祗承于帝(文命 四海に敷き、祗(つつし)み帝に承(う)く)」と見える。「怵惕」は恐れて不安なさま。『書経』冏命に「怵惕惟厲、中夜以興、思免厥愆(怵惕 惟れ厲(あや)ぶみ、中夜以て興き、厥(そ)の愆(あやま)ちを免れんことを思ふ)」と。
○頑凶 かたくなで攻撃的なこと。『史記』巻一・五帝本紀に、堯が、後継者に推された我が子を評して「吁、頑凶、不用(ああ、頑凶なり、用ひず)と。
○嬰 まとわりつく。『説文解字』十二篇下、女部に「嬰、繞也」と。
○威霊 異民族をも服従させる霊妙なる威力。ここでは、文帝曹丕のそれを指していう。『漢書』巻一〇〇下・叙伝下、匈奴伝について述べて「震我威霊、五世来服(我が威霊に震へて、五世来服す)」、また、王褒「四子講徳論」(『文選』巻五十一)に「今聖徳隆盛、威霊外覆、日逐挙国而帰徳、単于称臣而朝賀(今聖徳は隆盛にして、威霊は外に覆ひ、日逐は国を挙げて徳に帰し、単于は臣と称して朝賀す)」と。
○没歯 寿命を終える。『論語』憲問に、管仲の評価を問われた孔子が「曰、人也。奪伯氏駢邑三百、飯疏食、没歯無怨言(曰く、人なり。伯氏の駢邑三百を奪ひ、(伯氏は)疏食を飯ひて、歯を没するまで怨言無し)」と。
○昊天罔極 父母の恩に報いようと詠う『毛詩』小雅「蓼莪」に、「欲報之徳、昊天罔極(之が徳に報いんと欲すれども、昊天は極まる罔し)」とそのまま見えている。ここでは、天子の限りない恩徳をいう。
○顛沛 つまずいて倒れる。たとえば『論語』里仁に、君子が常に仁とともにあることを述べて「顛沛必於是(顛沛にも必ず是に於いてす)」と。
○黄壚 黄泉の国にあるという壚山。『淮南子』覧冥訓に「上際九天、下契黄壚(上は九天に際し、下は黄壚に契す)」、『文選』李善注に引く高誘注に「泉下有壚山(泉下に壚山有り)」と。
○矢石 戦場に飛び交う弓矢や累石。『春秋左氏伝』襄公十年に、「荀偃・士匄帥卒攻偪陽、親受矢石(荀偃・士匄は卒を帥ゐて偪陽を攻め、親ら矢石を受く)」と。
○東岳 呉との境界に位置する太山を指す。なお、李善注は、『文選』巻二十九、曹植「雑詩六首」其六の「撫剣西南望、思欲赴太山(剣を撫して西南を望み、太山に赴かんことを思欲す)」について、本詩のこの部分を引いて解釈する。
○毫氂 ごくわずかなこと。「毫」は一寸の千分の一、「氂」は「毫」の十倍。
○微功自贖 わずかな功績を上げて自らの罪を贖う。類似表現として、『後漢書』巻四十七・班超伝に引く班昭の上書に「超之始出、志捐躯命、冀立微功、以自陳効(超の始めて出づるや、躯命を捐てんと志し、微功を立てんと冀ひ、以て自ら効を陳べんとす)」と。
○危躯授命 身を危険に晒し、命を投げ出す。『論語』憲問にいう「子曰、見利思義、見危授命、久要不忘平生之言、亦可以為成人矣(子曰く、利を見て義を思ひ、危を見て命を授け、久要 平生の言を忘れざる、亦た以て成人と為す可し)」を踏まえる。
○知足免戻 「知足」は、身のほどをわきまえて、与えられた境遇に自足する。『老子』第四十四章に「知足不辱、知止不殆、可以長久(足るを知れば辱められず、止るを知れば殆ふからず、以て長久たる可し)」と。「免戻」は、罪を犯すことを免れる。『春秋左氏伝』文侯十八年に「庶幾免於戻乎(庶幾はくは戻を免れんことを)」と。
○天啓其衷 「衷」は心の中。衷心。『春秋左氏伝』僖公二十八年、寧武子が衛人と結んだ盟約に「天誘其衷、使皆降心以相従也(天は其の衷を誘(みちび)き、皆をして降して以て相従はしむるなり)」、杜預注に「衷とは、中也」と。
○遅 今や遅しと待ち焦がれる。
○如渇如飢 相手に対する切実な思いを飢渇に喩える。類似表現として、『文選』李善注に引く張奐「与許季師書」に、「不面之闊、悠悠曠久、飢渇之念、豈当有忘(面せざるの闊、悠悠として曠久たり、飢渇の念、豈に当に忘る有るべけんや)」、『毛詩』小雅「采薇」に「憂心烈烈、載飢載渇(憂心烈烈として、載ち飢ゑ載ち渇す)」と。
○天高聴卑 『史記』巻三十八・宋微之世家に、火星の動きを憂慮する宋の景公に、天文を司る子韋が応えた言葉にそのまま見えている。「惟漢行」(05-29)にも「神高而聴卑」と。そちらの語釈も併せて参照されたい。
○照微 類似表現として、班固が東平王劉蒼に説いた奏記(『後漢書』巻四十上・班彪伝付班固伝に引く)に、「願将軍隆照微之明、信日昃之聴(願はくは将軍の微を照らすの明を隆んにし、日昃の聴を信ばさんことを)」と。