再び想起する張華
こんばんは。
昨日まで連続して書いてきた「清商三調」と「大曲」との関係について、
なんと二年前にも同じ内容で考察していたことに気づきました。
それで、「大曲」及びそれに続く楚調「怨詩行」の編者は、
荀勗以外の誰か、たとえば張華であった可能性はないかと考えていたのですが、
このこともすでに、一年半ほど前に述べていました。
こちらやこちらの記事がそれです。
自分の耄碌ぶりにがっくりきます。
(考察は螺旋状に深化していくものではあるけれど。)
やっぱりメモは見返していく必要があると思いなおしました。
(このこと自体も、かつて書いていながら、実行できていませんでした。)
このところ、なぜ「大曲」や張華のことを想起したかというと、
曹植との関わり、曹植作品の近い時代の人々への波及、という観点からです。
「大曲」や楚調「怨詩行」は、
西晋時代のものと見てほぼ間違いないでしょう。
こうした宮廷音楽は、西晋王朝の滅亡とともに散逸し、
その復元は、南朝の劉宋時代まで待たねばなりませんでしたから。
(先日来頻繁に言及している王僧虔「技録」は、この南朝宋の産物です。)
その西晋時代に編成された歌曲群の中に、
曹植による歌辞の歌曲が二篇あることに興味を引かれます。
武帝曹操、文帝曹丕、明帝曹叡の歌辞、及び漢代の古辞に交じって、
曹植「野田黄雀行・置酒」(『文選』巻27では「箜篌引」と題されている)や、
曹植「七哀詩」をその歌辞に用いる楚調曲「怨詩行」が演奏されている、
そのことの意味を再度考え直したいのです。
荀勗にはそうした動機が生ずるとは考えにくいのですが、
張華においてはその可能性が十分にあります。
また、曹植と陸機との接点も、張華を中に置くと理解できるかもしれません。
(まだうまく言葉にできない段階のものを書き記しておきます。)
2022年5月14日