黄初二年の曹植
こんばんは。
昨日検討した曹植の臨淄への赴任時期について、
これまでにも何度か言及した津田資久論文はどう見ているでしょうか。*1
この論文は、昨日挙げたような複数の論文を検討しつつ、
「黄初六年令」(『曹集詮評』巻8)に基づいて次のように推定しています。
建安二三年(218)頃 延康元年(220)4月 黄初二年(221) 黄初四年(223) |
洛陽での不敬行動により、臨淄侯を失う① 鄄城侯として就国② 東郡太守の王機らに弾劾されて洛陽に召喚③ その途上、安郷侯に貶爵④ 鄄城侯として帰国⑤ 雍丘王に改封⑥ 監国謁者潅均による弾劾⑦ |
『三国志(魏志)』巻19・陳思王植伝に記すところでは、
黄初二年に、監国謁者潅均による弾劾⑦ 安郷侯への貶爵④ 鄄城侯への改封⑤
それに先立って、諸侯の就国が記されています。
このように、かなり大胆に正史を組み替えているのがこの論文です。
(ただ、本論文の眼目は、この点に関して考証するところにはないようです。)
結論から言えば、正史の記述がやはり正しい。*2
曹植「責躬詩」を精読するならば、そのように判断されるのです。
「黄初六年令」は、この詩を読解する際、非常に有益な傍証を与えてくれます。
「責躬詩」に拠って、黄初二年における曹植の動向を明らかにすることは、
あながち無意味ではなさそうだということがわかりました。
(半年ほど前に検討したことが、やっと形を取って見えてきました。)
2022年6月24日
*1 津田資久「曹魏至親諸王攷―『魏志』陳思王植伝の再検討を中心として―」(『史朋』38号2005年12月)。
*2 ただし、昨日述べたとおり、諸侯の就国の時期については、延康元年ではなく、曹丕が後漢から禅譲を受けた同年の10月より後と判断されます。