史料としての文学作品
こんにちは。
魏の基礎を築いた曹操の子であり、魏の文帝曹丕の弟である曹植は、
いわば曹魏王朝を構成する要人のひとりであるはずですが、
そうした彼の具体的な足取りについては、意外と不明瞭な点が少なくありません。
特に、兄の曹丕が、曹操の後を継いで魏王となった延康元年(220)から、
後漢王朝の禅譲を受けて、魏の初代皇帝として即位した黄初元年(220)を経て、
その生涯を終える黄初七年(226)に至る間の曹植の動向については、
複数の研究者が『三国志(魏志)』巻19・陳思王植伝の記述内容に異を唱えており、
つまりそれは、この間の曹植の事績が未詳であることを意味しているでしょう。
そこで今、曹植自身の文学作品「責躬詩」を中心的に取り上げて、
彼自身の言葉に依拠しつつ、その背後にある事実を明らかにしたいと考えています。
それで、「責躬詩」を論じる先行研究を探してみたのですが、
日本にも、中国にも、中心的に取り上げたものは見当たりませんでした。
探し方が悪いという可能性も否定できませんが、
表現的にも内容的にも堅苦しさばかりが先に立つ本詩は、
曹植文学を論じるには物足りない素材だと思われたのでしょうか。
あるいは、この作品から読み取れることは周知の事実なのでしょうか。*
そもそも文学作品を事実の推定に用いること自体、ナンセンスなのでしょうか。
なお、黄初年間の曹植に関する先行研究を読む中で、
以前「黄初六年令」に附した訳注に不備があることに気づきました。
本作品の語釈の「東郡太守王機」で、
“「王機」という人物については未詳。”としていたのを、次のように改めました。
“「王機」は、西晋王朝成立の元勲であり、曹魏の国史『魏書』の撰者である王沈の父。津田資久「曹魏至親諸王攷―『魏志』陳思王植伝の再検討を中心として―」(『史朋』三八号二〇〇五年一二月)の注(22)を参照。”
この重要な指摘を見落としていました。
2022年10月14日
*たとえば、比較的新しく刊行された岩波文庫の『文選 詩篇(一)』(2018年)pp.101―118、川合康三編訳『曹操・曹丕・曹植詩文選』(2022年2月)pp.337―354では、本詩に詠われたことの事実関係について、特に問題視してはいないような印象を受ける。